久しぶりに、ネイティブアメリカンの本を読んだ。そこに書いてあった北山耕平さんの言葉だ。
「モンゴロイドの末裔として、われわれが便利な暮らしを追いかけるなかでなにを失ったのか?」
脳味噌に直接響くような問いかけだ。
森羅万象に命があり、石ころ一つにも神が宿ると考えるネイティブの思想に通じる。
大地に心があるという発想・・・自分以外の全てに感謝する心・・・それはマタギの魂にも見て取れる。
母なる大地という事なのだろう。自分は大地から生まれてきたという自覚みたいなものか。この星が無ければ、自分たちは存在しないのに、自然に存在する物質全てによって生かされている(僕たちは地球に生かされている)だけなのに、母なる地球と父なる宇宙(そら)からの、自然の恵みだけが(地球に外から入ってくるエネルギーは太陽の光だけであり、それ以外は全て地球上で輪廻循環している)、僕たちを生かしてくれているのに、今の僕たちは食物連鎖の中に入る事すらできない。僕たちがこの 星に対してできる事は、今までしてきた事を反省し、少しでもこの星にダメージを与えないようにする事だ。地球が自ら再生していく様を静かに見守り、決して邪魔をしない事だ。
僕たち人間は、消費する事しかできない。米や野菜を作るなどと言っても、結局この星の恵みを頂いているに過ぎないのだ。
毎日山で過ごす僕が、自然の中で、より鮮明に感じる、何とも言えない居場所の無さがそれだ。「自然の中の不自然」とでも言おうか。どんなに憧れても、僕たちは生態系ピラミッドの中に入れ ないんだ。自らの肉体や生命を、他の命が生きる為に捧げる事をしなくなった僕たち人間は、生態系ピラミッドに入る事を許されないのだ。その疎外感はきっと、環境を 壊して自分たちの発展しか考えてこなかった僕たちに対する無言のメッセージなんだ。人間だけが突出して発達しているのではない。地球上で人間だけが孤立して いるのだ。
地球を含めた宇宙に、僕たち人間が「私はあなたのおかげで存在しています」と祈りと感謝を捧げても、宇宙(そら)は「それがどうした?その事実は私に対し、なんの義務感も生じさせない」と、冷たく言い放つだろう。
そもそも、「生態系」などと、人間が勝手に考えたしくみだ。山の生き物たち(大地も草も昆虫も鳥も・・・)は、自らのDNAに深く刻み込まれた、それぞれ本来の姿を全うする事だけを生きる目標にしている。「生きること、死ぬこと」が仕事なんだ。死してなお、食物連鎖にその身を捧げる。自分が生きてきたその場所に命を繋ぐ。
人間も森羅万象の一部ならば、本来あるべき姿を全うする方法を考えたい。
不必要なモノに溢れた贅沢で便利な暮らしが「豊かな暮らし」なのか?
本当に「豊かな暮らし」とは何なのか?勝っただの、負けただのつまらない争いと欲から身を引き、僕は名も無き山守・水守として暮らしてゆきたいんだ。金持ちにならなくても、有名にならなくても、人から褒められなくてもいい。僕は小さなことを積み重ねる方法しか知らない、このどこにでもいる普通の男にできることは知れている。けれど、僕はこの、小さな集落で死んでゆくと決めた。小さな洞の主として脈々と命を繋いでゆこうと決めたんだ。
こうやって答えの出ない問いかけを、続けてゆこうと思う。