山のめぐみで生かされる

お世話になっている人から山を預かり、間伐仕事を請けた。伐った木を生かそうと、自分で製材も始めた。その木がどこで生きてきたかハッキリとわかる。トレーサビリティをかけるなら、それは僕自身の軌跡を示すことになる。伐り旬を守り、新月前の一週間に拘り、伐った木は出して使うのを前提で寝かせる方向を見極め、そこへ丁寧に倒しこんだ。誰が伐ったかハッキリとわかる。大地へ委ねて木を乾燥させた。命を奪ったのは僕だ。それを大切に使わせていただくんだ。「いただきます」とはこのことだ。生きてきた場所で、静かに乾燥を進めた木々たちは穏やかに乾いてゆく。葉枯らしといって、伐ったら枝払いなどせず、そのまま森の中に寝かせておく方法なんだ。葉っぱは生きているから、常に蒸散を続ける。根っこから水を吸えないので、木は静かに自らの水分を抜いてゆく。お米のはざかけと同じ。父なる太陽の力で乾燥させる。スギで最低4ヶ月は葉枯らしする。ヒノキはもう少し短くてもいい。葉枯らししたスギは、赤身が素晴らしい色になるんだ。何故かは知らないけれど、製材してから時間が経つほどに美しく姿を変える。木にあらたな命を吹き込むのが木挽きだ。たとえば二股の木。これを市場へ出しても二束三文でしか売れない。トラックに積むにしても、一番上に積む段取りをしなきゃいけない。そもそも、二股を市場へ持ってゆくことが無い。股の部分は切り取られ、現場に置かれる。木挽きを始める前の僕なら、薪にするか、木の駅プロジェクトに出荷してしまう木だった。でも、今は違う。一本の木を、元から裏までできるだけ使いたい。それは、植えた人の思いだから。その木の最期に立ち会った、伐った木こりの願いだからだ。その山から巣立って行った木々たち。名古屋へ、一宮へ、静岡にも行くかな?普通の3倍以上手をかけても、3倍の値段では売れない。けれど、その想いが篭った木々たちに値段をつけて、僕は稼がなければならない。相場や流通が決める値段ではなく、挽き終えた木そのものの価値を見て、僕の経費、山主さんが植えて育てた経費をいただけるような価格に。当然、高い木になるはずだ。お金を払う人が(家を建てる人が)、お金を使って幸せになるような木を出してゆくこと。それが僕の仕事なんだ。仲間に手伝ってもらいながら、しかし基本的には一人で仕事しているから、経費は知れている。僕自身、お金を稼ぐのが一番の目的で山へ来た訳ではない。暮らしてゆく最低限稼げればそれでいい。毎日山の空気を吸い、山の懐で働き、山のめぐみをいただき、火を焚き、山に抱かれて眠れたら、それでいいんだ。旬・新月期伐採・葉枯らし・製材と、木が立っている状態から、大工が使える状態にするまで僕の手でできるだけ丁寧にやっている。「すごいですね」って褒めてもらうけど、「すごい」のは山であり、木々たちであって、僕を褒めてもらうよりも、僕が出した木を褒めてもらう方が嬉しい。僕がやいた炭を褒めてもらう方がいい。木は、母なる地球(大地)と父なる太陽(宇宙:そら)が育てた。何十年もその場に留まり、風雪に耐え、空気と水を育む森を造り出す。密やかに、力強く、堂々と。僕はそんな木みたいな人になりたくて、毎日木に向かっているんだと、最近気付きました。稼ぎも少なく、地味な暮らしだけど、毎日充実していて幸せなんです。それは、山のめぐみ。木々たちのおかげです。どんな小さな、名も無き山にも棲むという神に見守られ、僕はたいした怪我も無く生かされている。この意味はなんだろう?って、山に問いかけても答えてくれません。僕がどんなに山を愛し、僕の足音を山に聞かせても、山の木々たちは、僕を必要とはしていない。それが宇宙の真理・法則なんだと思う。そんな事を日々考えている炭やき・木こりがいてもいいですよね。

投稿者: 炭やき人

北三河木こり人、北三河炭やき人、北三河木挽き人

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