https://www.youtube.com/watch?v=7kHZ0a_6TxY
人間は、山に対してもっと謙虚になる必要がある。木は移動して逃げることができない。そこにいて立ち向かうだけ。
僕の師匠は大きな木のような人だった。「木は偉いぞん」が 口癖だった。一旦根を降ろしたら、とことん、そこで生き続ける。何十年も。何百年も。僕もそんな「木のような人」になりたいんだ。この動画。パタゴニアが作ってるから、それを前提で観てみる。
「木は会話する」のスーザン・シマードさんが出演されている。愚直な観察と深い考察。明瞭な解説。冒頭からドライでアカデミックな話に引き込まれる。途中、日本人の残念なコメントに少々ガッカリしながら。
僕は木を擬人化して、「木はあなたを嫌いとは言わないから」などとは言いたくない。木や山は、そんな存在ではないと思う。もっともっと崇高で、人間なんか比べることもできないくらいの存在だと思う。
同列に並べるなんて、おこがましい。僕は原生林のガイドもするけど、毎回楽しみにしていたミズナラがあった。僕はそのミズナラに会いに行ってたんだけど、そのミズナラは僕のことなんて相手にもしていないんだ。圧倒的な片思い。絶対的に届かない距離。
それは人間が木と付き合う前提だと思う。森を造るだとか、森を再生する、山を管理するなんて、そもそも無理なんだ。それは神の領域です。
人が植えた木を、人が伐って利用するくらいしかできない。あと、多少の天然木を頂く。その他の植物は、人間のためにあるのでは無い。今日の午前中、僕が所有する(固定資産税を払っている)足助の山(2町歩)で、市有林との境界調査に立ち会った。約50年前に植林されたスギとヒノキの人工林。急な斜面に岩場だらけ。ここでも木は会話しているのだ。
僕の山も、設楽町の原生林も、この動画に出てきたブリティッシュコロンビアの森も、全部同じだ。山には神が棲む。どんな小さな山の頂にも、神は棲む。そして僕たちを見守っている。
この動画は、そんなことを考えさせてくれた。特に、20分過ぎのスーザンの言葉は深く染みる。映画アバターでも描かれていたような、大地そのものが叡智であるということ。毎日山の懐で暮らす僕だけど、もう一度、もっと静かに、深く山と対峙しようと思ったのです。https://www.youtube.com/watch?v=Bh7-y5KGxDQ&
feature=share&fbclid=IwAR3CIuwVeQq75iRKjcQISfl4cvmzN0TT_JsL7Nq-Fv-xMrC4Pe6VA8TMLG0�youtube.com『treeline(ツリーライン)』:パタゴニア静かに、辛抱強く、生き存える木々は、地球に住む私たちが知る最長寿の生命体です。彼らは避難所や燃料を提供してくれる仲間であり、ときには神のような存在で…