15年って、あっと言う間。僕は42歳でSEを辞めて炭やき職人の道へ入った。
炭やき修行はその前から続けていたけれど、すぐに収入になる訳もなく、一年くらいはガソリンスタンドでアルバイトしながら、山へ通った。その時、僕の心にあった言葉が「炭やきは地球を救う」という言葉。
これは、僕の師匠、斎藤和彦さんの師匠にあたる、杉浦銀治先生の言葉だ。
お2人は僕をこの道へ導いてくれた。斎藤さんはもう亡くなってしまったけど、僕の心と、僕が使っている窯にはまだ、魂を残してくれているんだ。
齋藤さんと銀治先生の教えは、今も僕の真ん中にある。
師走で忙しいはずなのに、ふと15年前はどんなことを考えていたのか?って想った。自分のブログを読んでみて思った。言ってることが変わっていない。
よく言えば、「ブレていない」。悪く言えば、「進歩が無い」
でも、「進歩が無い」でいいと思うんだ。僕は無愛想で偏屈だ。話も上手じゃないし、仕事もスマートに行かない。お金にも余裕が無い。
こんな僕でも、できることを愚直に続けるだけ。小さな小さな成功を積み重ねるだけなんだ。
15年前、こんなことを考えていた。
「地球を救う」・・・自惚れた言葉です。僕たちが地球を救える訳がない。人間ごときにこの母なる大地を救える力は無いのです。本当に地球を救えるのは、地球そのものの再生能力だけです。そんな事は初めから充分にわかっていました。それでも、地球を何とかしなければならないという心の声は日に日に大きくなるばかり。本当に「地球を救う」事になるのはきっと、私たちの子孫の時代でしょう。僕が今できる事は、先人たちが冒してしまった、自然の摂理から離れ歪んだ山林の実状を、少しでも元に戻す事。地球自身の再生能力の手助けをするだけ・・・
そして憧れる「マタギ」の考え方はこんな感じです。樹木には木魂が宿り、生物には霊が宿るため、この天地自然を守り支えるのは「山 の神」であり、峰々渓谷には神が宿るという山岳信仰を継承してきた。特にマタギ達は「自然のものは全て山の神が支配するもので、山の恵みは全て山の神から の授かりもの」として山の神を敬い祭りました。
今でいう自然保護の掟を破ること、山を汚すことは神を冒涜することであり、受難につながるとして安全と健康を祈願しました。従って入山行動の始まりには、山の神の保護と豊穣を祈願する拝礼を行い、終了時に感謝の拝礼を行なって自然と人間の共存共栄を喜び合ってきた。そのとうりですね。全く、異論はありません。全てのモノに神が宿るというインディアンの考えにも通ずるものがあります。無宗教だが信心深い。僕もそうありたい。山で仕事をする時は、山の神に感謝しながら萌芽更新を促すような伐り方を絶えず考える。大切なのは必要以上に伐らない事。来年の事を考え、必ず残す事。長い目で見て、それも「地球を救う」事につながるはず。自惚れたこの言葉を敢えて使って、一歩ずつ進んでいこうと思います。
15年前、名古屋から三河の山へ通いながら、行き帰りの車の中でずっと考えていたんだ。
今は北三河の山村に棲み、現場も道具も、かけがえの無い仲間も与えられている。
15年で僕の体力は落ち、頭は薄くなった。多少は技術レベルも上がり、何とか食えるギリギリの収入も得ている。情けないけど、今月の収入で来月の仕事経費と暮らしを成り立たせるようなレベル。
でも、それも僕の生き方。
ほんの少し、メディアに取り上げられて、正直嬉しいし、自慢したいけど、それは一時のこと。やっぱり僕は山に入り、炭をやき、木を挽く。
金持ちになること、名を残すこと、誰かに勝つこと・・・
そんな欲を捨て去って、軽やかに、躊躇なく、山の懐で働ける喜びを味わいつつ、次の世代へ繋いでゆこうと思うのです。
僕が目指す「頑固で楽天的な爺」になるために。