僕は山が好きで、それを仕事にした。
街で生まれ、街で育ち、街で働いていたけど、42歳、男の本厄と言われる年齢で、山に身を置いた。それ以来、山を背に生きている。日々、寝ている間さえも山の空気を吸っている。それはこの先死ぬまで続くことだ。
僕は木を伐るとき、カンブチを立てかけて、山の神に祈る。
山そのものが大きな生命体だと思っている自分にとって、その象徴である木を伐って、その命を絶つということに対し、不思議と「悪い」といった感情はほとんど無かった。それで食っているから「いいこと」と自分に言い聞かせるという理由もあるだろう。
祈る相手はそれぞれの頂に棲む神だ。祈ることは、集落のお宮さんに対して祈ることと同じ。今、ここで好きな仕事をさせてもらっていることに対する礼だ。
木を伐ると言っても、人工林の間伐と、天然林の伐採(炭の原木調達)は違う。
どちらも山仕事で、木の命を絶つという行為には変わりが無い(厳密にいえば、針葉樹は確かにそこで終わりだけど、広葉樹はヒコバエが出ることもあるから、ちょっと違う)。
間伐仕事は、人が植えた木を間引くこと。育てて収穫して、挽いて稼ぎにする。畑仕事と同じだ(畑なら1年周期の仕事だけど、山はそれが数十年周期になる)。
広葉樹の伐採は、天然の木を伐り、それを元に稼ぎに変える。例えれば、山菜を採って、それを売るようなもの。山の恵みを頂くということ。
何かの講演を聴いていた時、講師(環境活動家だったと思う)が、木が倒れるときの音が悲鳴に聞こえると言った。僕はそう思わなかった。可哀そうだとか、友達だとか、意思があるとか、考えているとか・・・木を擬人化することには違和感を持っている。
スーザン・シマードさんが、脳を持たない植物同士、微生物を介して情報をやり取りしたり、日陰になる幼い木に、マザーツリーが炭素を分け与えたりするのを証明した。ただ、そこに思考や感情があるとは思えない。その山全体、全ての生き物が生き残るための情報をやりとりするだけ。山に生かされている僕は、樹木に対して心から畏敬の念を持っている。植物は、人間よりも崇高な生き物だと思うんだ。
土壌、微生物、植物・・・生態系ピラミッドの基礎。分解者と生産者としてすべての生き物のベースだ。だから植物は思考や感情を捨て去って、この星を支えるようになったんじゃないかな。と考える。
もしも植物が意思を持っていたら、彼らは人間を許さないと思う。