この一週間、僕が何故木こりになり、炭をやき、木を挽くのか?ということについて、3回も話をする機会があった。どれも初めて会う人たちに対して。
僕が全てを一人でやっていると言うと、「すごい!」と返ってくる。
流域の話をすれば「感動した」と言ってもらえる。
そのたびに、僕は何とも言えない気持ちになるんだ。
もちろん、相手は心底そう思ってくれているんだろうし、それは僕に対するリスペクトも含まれている。
おこがましい言い方になるけれど、そう言われるたびに、「俺の本当の凄さはもっと高い次元にある」って思ってしまう。
人知れず、誰も見ていないところで、職人として手を抜かないこと。それは誰かに語ることでは無いし、自分で自分を評価すれば、まだまだ、全くダメだ。
「すごい!」って褒められても、僕は自分のことを「普通のおっさん」だと思っているし、こんなことできて当たり前だし、特別な能力がある訳でもないって、本気で思ってる。
ただし、自分のしていることには自信ある。その自信は、誰かと自分を比べた結果の自信ではなくて、言ってみれば自己満足。自己中心的なモノの見方だ。まあ、それでいいと思ってる。
結局、自分を評価する他人の言葉など、参考程度にしておいた方がいい。他人の言葉で右往左往したくない。自分の評価は、自分でする。自分だけはごまかせないから、その評価は最も厳しい評価になるはずだ。それは誰でも同じだと思う。
「他人にどう見られるか?」ではなく、「自分がどうありたいか?」を全ての行動の根っこにしたい。外観や言葉使いは、他人に不快な思いをさせない程度でいいと思うんだ。
「流域思想」について話をした相手は、「感動した」と言ってくれた。
それだって、僕が独自に考えたことではなく、悠久の昔から脈々と、粛々と行われてきたこと。
僕は「世の為、人の為」とか、「世直し」、「世界平和」とか言うのが大嫌いなんだ。
究極の自分勝手だと思うんだけど、僕は自分がしたいことをして、それが結果的に誰かの幸せだったり、誰かの役に立つのなら、それが嬉しいとしか考えていないんだ。
「花は、ただただ、咲きたいから咲く。それだけのこと。それ以上でも、それ以下でもない」
自分自身が充実していて、満たされていないまでも、日々の行いに迷いなく、心身を捧げることができていれば良くて、大きな成功、高収入よりも、小さな成功を積み重ねることを続けたい。高く翔ぶことよりも、黙々と遠くに行きたい。
偏屈で厄介な性格だと思います。日々の仕事は生き物である木の命を奪い、その償いのような形で炭をやき、木を挽いてる。
今の僕には、そんな仕事しかできない。だけど、僕と同じ仕事は誰かにはできないんだ。それは僕の密やかな自覚と自信です。
人の目を気にしないと言えば、嘘になる。人から褒められたいし、承認欲求だってある。大切な人も、大切なモノもある。
けれど、偏屈なおっさんは、「誰とも戦わないけれど、誰にも負けない」と、ちっぽけな自分の存在を奮い立たせて進んでゆくのです。
今回話を聞いてくれて、素直に「すごい」と言ってくれた人たち、感謝しています。