偶然知った言葉「誰かが僕の敵であろうとも、べつに僕がその男の敵にならなくてならぬということはない」
僕は基本的に、善人説で動く。世の中の人、本当に悪い人って、少ないと思っている。
ただし、好き嫌いはハッキリと出そうと思う。元々、好き嫌いが顔に出るタイプで、ツレから言わせると、すごくわかりやすいらしい。
むしろ、それでいいと思う。僕は嫌いな相手とは口もきかない。それは逆に、笑顔で接している相手は信用した相手ということ。それが逆に信頼を得ていると知らされたことがある。それはそれで、僕らしくていいんじゃないかな。
自分が嫌いを表に出すということは、相手からも嫌われることを意味する。それは最初から承知。嫌いな相手から好かれたいとは思わない。そして、誰からも好かれたいとも思わない。
周りにいる、嫌いな奴らを許し、仲良くやろうなんて全く考えていなくて、反りが合わない相手からは離れるか、それができないシガラミの相手ならば、こっちが変わるしかない。
それは難しいけど、嫌いな相手が変わることを期待しても無理だから、こっちの受け取り方を変える。
たいていの場合、相手をかわいそうな奴だと思うことにする。実際、年上だけどかわいそうな奴が何人もいて、そいつらは僕に対して敵対心を向けてくる。そんな相手は、僕の敵にすらならない、つまらない奴と考えるようにする。
予期せぬ相手から敵扱いされることもあるけど、その時は、今日知った言葉を思い浮かべよう。
争いをこちらから仕掛けることは無いけれど、降りかかった火の粉は自分の手で払う。それは子供のころからの自分の掟だ。
あと、クソガキだった僕が守っていたこと。それは、自分よりも強い相手とだけ、喧嘩するということ。
偏屈な還暦手前の、小汚いおっさんにも魂はある。
腕力では適わない相手でも、名誉を賭けて戦うことだってある。
理想は、「誰とも戦わないけれど、誰にも負けない」です。