今は植えるより、伐って使う時。戦後の拡大造林施策でほぼ無計画に植えてしまったスギやヒノキを伐って使わなければ、本来植える場所も作れない。
植林や植樹が「良いこと」としてまかり通ってる。
山は一つの生命体なんだ。人間が、そこに植樹をすることは、山に対する遺伝子操作である。
ただし、山には所有者がある。僕も山を所有している。
固定資産税を払っている地主が、その山をどうしようが、基本的には自由だ(保安林に指定されていない限り)。
だから、その山の30年後、80年後のグランドデザインを決めた上で、林業を営みたいのなら、無花粉のスギを植えるのも(僕は無花粉のスギは本来の強さが無いと思うから植えないけど)、一つの手段だ。
環境にいい山にしたいのなら、間伐したら放っておく。光と風を入れたら、あとは大地が何とかしてくれる。その山に残っている埋土種子が実生で発芽する。少なくとも、人間が植えなくても、そこに合った樹種が活動を始める。間伐してから何年も後に。ひょっとしたら、間伐してから何十年も後かもしれない。本当に環境に良い木が好むのは、湿っていて暗い環境だから、そこまで森が変化するのを待つということだ。
林業(間伐)は、結果が出るのが何十年も後だ。だから、施業した人間は、自分の仕事の結果を自分の目で見ることは無い。それが、環境を良くするための林業なんだ。
天然の森に、子供のためなどと戯言を唄いながら、広葉樹を植林している輩がいる。彼らは、また人工林を作りたいのだ。愚かな繰り返しに気づかず、俺が植えて育てているんだと威張りたいんだろう。自分たちが植えて、ある程度育った木を見てヘラヘラと喜ぶ。僕はそれを見て、バカがと唾を吐く。
僕が学んだ森林に対する姿勢とは、
人工林(人が植えた森)は、徹底的に人が手入れをする(伐るにしろ、植えるにしろ)。
天然林は、徹底的に見守る。地面に落ちた種から、実生で発芽して育つのを、ただただ見守る。決して、人間が手を加えない。それが自然を守るという行為だ。発芽して、それが枯れようとも、手を出さない。
そうやって、水源地の森を守るということなんじゃないか。
偏屈な木こりの戯言(ざれごと)と聞き流してもらえばいいけれど、こんなことを考えながら木を伐り、炭をやき、木を挽く田舎者が居ることを知ってて欲しい。
