春の日に

何かと忙しい毎日。ふと山を見れば、淡い新緑と今年最後の花を咲かせる山桜たち。年に一度、咲きたいから咲くサクラ。年に一度の自己主張なのかな。

儚く消えゆくモノが愛おしい。

それを大切にするような生き方をしたいと、常々想う。

名も無き山の、人も行かないような斜面でひっそりと精一杯の花を咲かせる。木々には感情が無いから、木々たちはひたすらに生きる事を仕事としている。意志ではなく、本能で生きているはずだ。

自分もそうありたいと願うけど、人知れず誇り高く・・・と言いつつも、承認欲求は確かにあって、だからこうしてSNSで発信している訳だ。「いいね」は素直に嬉しいし、褒められると幸せ。

自分の目指す姿として、誰とも群れないし、褒めてもらわなくてもかまわないし、他人の評価など我関せず。ってありたい。

過剰な承認欲求と、思い上がった自己評価だけはしないと思ってる。

ふと、そんな事を山村の情景を眺めながら考えてる。

一時咲き誇るサクラを見ながら、山に想いを馳せるようなこの時間を持てる事が嬉しいし、家の前にある里山の営みがまるで自分の懐で静かに進んでいるような、そんな幸福感を感じている。

貧乏だけど貧しくないこの暮らしも、なかなか良いものです。

偏屈なおっさんの独り言

年度末。いつもなら何かと忙しく、落ち着かない日々なんだろうけど、確定申告も先月終わらせて、とりあえず現場仕事も落ち着いている。請けている仕事はあるけど、どれもコントロールできている。

この数日、雨で何となく頭痛がしている。

夕方家に戻り、薪ボイラー焚きながらあれこれ想いを巡らす。

見上げると、雲が切れて星が出ている。すっかり、春の星座になりつつある。早い時間には冬のダイアモンドが大きく展開していて、今シーズンはそろそろ見納めだなあって思う。

考え事していたら1時間も焚火を眺めていた。明日は貴重な晴れ間になりそうだから、先週伐ったサクラやケヤキを搬出。現場は家から100m。

かけがえのない時間を大切に、儚く消えゆくものを愛おしみたい。

宇宙に想いを馳せつつ、現実を見つめる。

思うのは、毎日焚火できる幸福。焚いているのは全て、自分で伐った木。僕が命を奪った相手だ。せめて燃やす事で自分自身を納得させている。僕に伐られた木々たちは、そんな事とは無関係に酸化と熱分解を繰り返している。木こりである僕は、木々たちを擬人化して「痛そう」とか「かわいそう」とは思わない。それこそ、僕が生きてゆくために伐らせてもらっている。よく、環境活動家が「山がかわいそう」とか、「木が泣いている」って表現をするけど、木々たち、山河はもっともっと崇高な存在。ニンゲンの所業など関係ない。「生きる事が仕事」である。僕は山は大きな生命体だと考えているけど、それにしたって、僕たちニンゲンのために存在している訳じゃない。「ありがたい」とは思うけど、「ありがとう」とは言わない。ニンゲンの方がずっと下等な生き物だからだ。私欲にまみれた汚い存在。そもそも、ニンゲンなんて、生態系ピラミッドから弾かれた存在。それは、自らの肉体を食物連鎖に捧げていないから。法律的な事もあるけど、火葬していることで、ニンゲンは消費するだけの愚かな存在に成り下がってる。

僕の個人的な見解だけど、土葬をやめた頃から、思い上がりと横柄さが現れてきたんじゃないかな。死んだら、その屍を微生物に捧げる事(土葬)で初めて、この星の環境に恩返しできると思うんだ。

それらをちゃんと考え、腹に落とす事をしなければ、この仕事は続けられない。多分、一生答えは出ないだろう。農業だってそうだ。育てた命を収穫して、糧にするのだ。一次産業とはそういう仕事なんだ。キレイ事や夢物語ではできない。現実に目の前の命を奪う仕事なんだ。

せめて、僕が相手の命を絶っているという事実を受け入れようと思っている。木を生き物として扱おうと決めている。それもあって、炭の原木も、製材の原木も、自分で伐って運ぶというスタイルを貫いている。大したことではなくて、普通ではないかもしれないけれど、僕にとっては当たり前だと思っている。

派手な活躍を自慢するより、日々の質素な生き方を密かに喜びたい。名も無き山の頂に棲む神に見守られて、誰にも知られなくとも、誇り高き炭やき人でありたい。

有名になる事や、金持ちになる事からは離れて、名も無き山守、水守として、ソローが描いた老人のように枯れてゆきたい。もちろん、金は必要だし、いくらあってもいいんだけど、有り過ぎても結局道具を買ってしまうだけ。

お金を直接もらうより、正当な対価が頂ける仕事が欲しい。儲けるより、いい仕事がしたいという欲求の方が強い。

などと、焚火しながら思い巡らせる。偏屈なおっさんである。

夜中に工場で

22年前の修行中、夜中に師匠の窯に薪をくべていた。静かに燃える炎を見ながら、俺はこの仕事で生きてゆくんだと、携帯も通じない山奥の、誰もいない窯の前で、静かに覚悟を魂に宿した。

そして今、やはり誰もいない工場の、自分の窯に火をくべながら、ふといろんなものを抱えてしまっていると気付く。

捨て去ることによって落とし前をつけるという方法が最も、僕には合っている。

もちろん、一つ一つのことにいちいち決着をつけていたら、逆に前へは進めない。終わらないまま、次のことを始めて、いろいろな事情を引きずりながら、それでも歯を食いしばって進んでゆくんだ。

重たくなってしまった我が身。

いっそのこと、全てを捨て去って、昨日に爪を立てて、今日を這いずり回り、明日に向かって吠えたい。

その想いとは裏腹に、今日も「稼ぎ」と「仕事」の狭間でもがき苦しむ。

窯に火を入れると、様々なことが頭を駆け巡るんだけど、小さな音で流しているジャズと、見上げた星空や闇に浮かぶ山々の稜線に心奪われる。

この星たちはこんなに美しいし、僕は毎日でも眺めていたいのに、あの星たちには僕のことなど関係ない。

木々や山河に馳せる僕の想いも、実は僕の自分勝手な妄想であることは知っている。

けれど、今していることはこれでいいし、小さな達成感だけど、誇り高き僕の「仕事」である。

窯が温度を上げて、そこから立ち昇る煙の匂いからいろんなことを考えてる。

時間に追われた日々から時々、真夜中に山村で煙を上げて、自分の行き先を確かめるのもいいもんです。

命のリズム

毎日太陽が昇り、沈む。

その位置が日々変わってゆく。

でも毎年、同じ日に、同じ位置に戻る。

一年で季節を巡る。命のリズムの繰り返しだ。

そのリズムは、母なる地球が、父なる太陽の周りを大きく回るときのリズムだ。

今日も山の稜線に、太陽が姿を消してゆく。

太陽の動くスピードは、悠久の昔から変わらない。いや、太陽は動かない。

この地球が回転するスピードだ。地球が自転するときの小さな命のリズムだ。

宇宙にぽっかりと浮かんで、堂々と回転しているこの星。

時計を外して、裸足で地面に立ち、そのスピードを自分の身体とシンクロ(同期)させるんだ。

難しいことはない。それが本来の時の刻みだから。この星で生きる全ての命、森羅万象このスピードで回りながら、宇宙を旅しているのだから。

偏屈な炭やき木こりは、日々そんなことを宇宙(そら)に想い馳せながら、名も無き山の懐で暮らしているのです。

明けましておめでとうございます。

今日(2月10日)は旧暦正月。先週が立春だったから、一番近い新月である今日が旧正月。全てが生まれ変わるような日。

24節気(太陽と地球の位置関係)と旧暦(地球と月の位置関係)が、この星で生きる動物として、宇宙の真ん中で全てとシンクロしている様(さま)を端的に、しかもダイナミックに表わす。

それ(無意識に感じる、月からの重力とか、太陽光の強弱だったり、明るい陽射しだったり、夜の暗闇だったり)がDNAに刻まれた本能を呼び覚まして、ココロとカラダを動かす。

回り続ける地球が生み出す、悠久から決して停まる事無く、脈々と粛々と流れ続ける時間。

何の矛盾も無い、絶対的な真理。それを想うと、何の不安も無くなる。単純にチカラが沸き上がってくる。

炭やき仕事

午前1時。工場に来てる。昨日から窯を焚いてるので、初日はこうして夜中にも薪をくべに来るんだ。

見上げると、同じ位置に同じ星。南の山の上には冬のダイアモンド、北には北斗七星からの春の大曲線。

月は昨日と位置を変え、ほんの少し欠けている。

星の位置も、正確には同じ時刻に同じ位置には無い。

いつも思うんだけど、日々のこの、僅かな変化を愛おしむような、儚く消えゆくものを大切にするような、そんな生き方をしたい。

絶えず堂々と回り続ける地球。

それを感じるのは、それぞれの感性。街に居ても、山で暮らしていても同じはずだ。

夜中に、まるで生き物のような窯と対峙していると、ついつい理屈を捏ねたくなる。

そう言えば今日も誰とも会っていないし、話もしていない。

窯から出した炭は、ちょうどいい長さ(基本は7センチ)にカットして、袋か箱に詰める。それでようやく、お金に替わる訳だ。今日は朝からずっと炭を切っていた。

固定した丸鋸で炭を切るんだけど、もう面白い程真っ黒になる。例えれば、ドリフの爆発コントみたいだ。当然、その顔ではコンビニにも行けない。

鏡を見ると、自分でも笑ってしまう。でも、そんな真っ黒な顔になっていても、むしろ誇らしいというか、これが炭やき職人の顔なんだと思う。

今年もお世話になりました

2023年も終わり。
今年は怪我に泣かされた。特に夏以降、参った。
全て、自分の責任。しかも、仕事の道具(草刈り機と製材機)での怪我。
情けない。それでも、還暦過ぎのこのポンコツおっさんのカラダでも、日に日に怪我は回復してきている。傷口はすっかり塞がり、痛みも少なくなってきた。生きているという事は、細胞分裂を繰り返し、日々変化してゆくことなんだな。

さて、来年も変わり映えのしないこのおっさんですが、よろしくお願いいたします。

変わらぬ想い

山仕事をすると、不思議な感覚になる。

多分、命の源に触れるからなのだろう。

母なる大地と、父なる宇宙(そら)をつないでいるのが山の木々たちだ。

大地に根を張り、その恵みである水と養分を吸い上げ、宇宙(そら)に向かって枝葉を伸ばし、唯一地球外から入ってくる太陽光エネルギーを取り込み、反応し、蓄える。

その木々は、酸素を造り、毎年葉を落とし、寿命が来たときに、自らの身体を大地に預け、再び土を肥やす。その腐葉土だけが、本当の命の水を生み出す事ができる。

命の水は、山が造りだすのだ。僕たち人間が、どうあがいても命の水を造りだす装置はできない。悲しいけれど、人間にそのような能力は備わっていない。

命の水を守るには、山を守るしかなく、山を守るには、山を守る人を守るしかないのだ。

人工林の間伐に精を出す僕だけど、なぜか取りつかれたように夢中で伐る。

自分の居場所を見つけたような感覚だ。

先人たちが植えてくれた木々だ。無駄にする訳にはいかない。

今は間伐するしかないんだ。

一旦人が手を入れた森は、人が手を入れ続けなければならない。自然の摂理を無視して植えてしまった人間の愚かさ。

けれど、今はそれを議論している場合ではない。日本中で今すぐに間伐を待っている森は600万haあると言われる。だから、間伐する。

僕たちの世代は伐る世代なのだ。

間伐したあと、その森はゆっくりと本来の姿に戻っていく。恐らく、7~80年先だ。

僕が生きている間には結果を見ることはない。僕はそれをとっくに覚悟している。

それが山を守ることになるのだ。

金持ちになること、有名になることはとっくの昔に諦めた。

諦めたというより、そんなこと、どうでも良くなったんだ。

僕は心からこう思う。

名も無き山守になりたい。

ただただ、水を守る人になりたい。

向かい風

この三か月、二度の怪我で仕事のスケジュールが大幅に変わり、段取りが狂い、結局やることは変わらないので、痛みを堪えて無理する事になった。我ながら還暦を過ぎてからの、異常な暑さの中で、この状況をよく乗り切ったと思う。それでも、次の現場は始まっている。先週から伐採を始めている。相棒は絶対的な信頼を置いてる中條(ちゅうじょう)さん。彼は40代前半でバリバリの現役庭師(僕と組むようになってからは、木こり寄りの庭師だけど)。樹上仕事を積極的にこなしてくれる。仕事は僕が請けているけど、彼の立場は僕と対等。年齢を超えて、お互いをリスペクトしている。従業員ではなく、外注の職人さんという立場。

作業手順などの提案は全てきちんと聞くし、特に安全に関しては徹底的に議論する。最終的には僕が判断するんだけど、一度決めた事は黙って従ってくれる。時間も仕事の態度も真面目。特に安全に関する意識が近い事、お互い個人事業主として、もはやケチと思われるくらいに経費を使わないようにしているけど、道具に関してはちゃんとしたモノを買うところが似てる。

彼がいてくれる事が前提で今回の現場も請けられた。

春から請けていた伐採・製材仕事も先週ようやく、キリがついた。8月に10針縫った怪我をした現場も、施主の暖かい配慮で延期してもらって、先週残りをやっつけてきた。指の怪我もちょうど、現場が始まるタイミングで治療を終えられて良かった。本当に、怪我はしちゃいけない。身も心も収入も削られる。

そんな慌ただしい日々を過ごしていて、昨日の送迎で乗ったハイエースはスタッドレスに替わっていた。

もう11月。朝と夜はストーブも焚いてる。あと40日余りで今年も終わる。

動き続けているからこそ、日々はあっと言う間に過ぎ、正面から風を受けているような感覚だけど、これで立ち止まれば風は止み、寂しく感じるんだろうな。

若い頃のように、上へ昇るような日々はもう無くて、降りてゆく生き方を選んでいるつもりだけど、やっぱり立ち止まる訳にはいかない。忙しいくらいがちょうどいい。

束の間の休日に

束の間の休息を味わった数日。また明日からは現場だ。

そんな、何もしないと決めた日の夕暮れ。太陽が西の稜線に沈む。

実は太陽が沈むのではない。太陽は太陽系の恒星なので動かない。動いているのはこの地球だ。母なる地球は、何十億年も変わらないリズムで回転している。この世で最も崇高で、神秘的な事はこの星の自転だと思うんだ。自転によって、重力や時間の概念が生まれ、そもそも自転していることでこの星の環境は現在の形になり、それに適応した全ての生き物が共存している。

あの、太陽が沈む時のスピードは、この地球がこの無限に拡がる大宇宙の中にぽっかりと浮かんでいて、堂々と回転しているそのスピードなのだ。

その地球の表面にちょこんとへばりついている僕たち。その様を宇宙から眺めるように想像してみる。すると、足元は地の果てまで繋がっている。この大きな球体は、実は全て同じ面であり、神羅万象全てが繋がっているんだ。

久しぶりに時間ができると、ついそんな事を考えてしまう。名も無き山の懐で、山に抱かれるように暮らしていると、山河の圧倒的な生命感、大地の絶対的な存在感を強く感じるんだ。それらは神秘的な生態系の営みを否応なしに意識させる。