今日知ったニュース。
10代から大好きだった小泉今日子さんが「森づくり」活動をしていると。
東北で、その地で育った落葉広葉樹のドングリを集めて、苗木にして植えるんだと。
それは、自然を守る事にはならないんだよ。
広葉樹の人工林を作るって事。愚かな自惚れ。
僕の大嫌いな環境活動家、市民活動家たちは「森を守る」「木々と共存する」なんて、自惚れた話をする。
僕も山を所有している。固定資産税を払っている。その山をどうするか?それは僕のグランドデザイン次第。他人からとやかく言われる筋合いはない。
そこを間伐して、スギやヒノキを植えて、林業を成り立たせようと思えばそうする。
自然を守りたいと思えば、間伐してそのまま見守る。
人が植えた木は、人が徹底的に管理して、手入れする。
人が植えていない木(実生で芽を出した木)は、徹底的に見守るんだ。
人工林問題については、僕はその真っ只中にいて、木こりとして木を伐る事で、自分なりにプロとして動いている。
僕の嫌いな活動家が言う「間伐材の有効利用」。。。反吐が出る言葉だ。
50年以上前、孫のためにと植えたスギ・ヒノキ。今ではそれが金銭的な価値を生まない。その思いが籠った生き物である木々を、机上で能書き垂れてるような奴らがもてあそぶ。まるで正義の味方みたいな顔をして、いかにも問題意識を持っているように、真剣(なふり)な表情で語る。所有者たちの気持ちや、実際の経費、これからの見通し、それらに蓋をして、今自分たちの評価を上げるためだけに、きれいごとを並べる。
「間伐材」という材はありません。
山にある木々は全て「木材」。目の詰み方、太さ、曲がりの少なさなどで、木材としての等級は変わる。つまり、売値が変わる。A材からD材までランク付けされて、市場では買い方が値を付ける。僕たちはその金額が直接収入になる。
木の等級の中に、「間伐材」なんて無い。おそらく、細くて曲がった材を言うんだろう。
僕は木こりだから、「間伐」を仕事で請ける。間伐補助金の申請、搬出補助金の申請などもあるから、細かく選木する。その時、「伐採する木」を選んでるんじゃなくて、「将来残したい木」を選び、その将来木が育つのに支障になる木を伐る(間伐する)。間伐とは、施業の種類だ。僕たちが山で伐り、出した木は「木材」なんだ。
そして、搬出して製材する。出せない山の仕事は請けない。
僕が「間伐」を請けると、山主さんと山を歩いて選木(残す木を決める)する。補助金申請の間伐率を考えながら。そして見積書を提出する。
僕の選木は、まずその森で一番大きな木を見つける。この木はマザーツリーだから当然残す。そして、二番目に大きな木は伐採対象になる。元で70cm級になる事が多い。
これを搬出して、市場に並べた時、誰も「間伐材」とは思わない。
そもそも「間伐」という施業は、約1間(1.8m)間隔で植えられたスギ・ヒノキは、1町歩で3000本になる。僕たちが本数管理をする時の指針で「相対幹距比を20に近づける」があって、簡単に言うと樹高の2割、樹幹距離を取る施業という事。
樹高が20m(このあたりのスギ・ヒノキの平均的な樹高よりも少し低い)の場合、樹幹距離は4mが理想。という事は、樹高が18mを超えた時点で、1町歩3000本植えた木を半分に減らす事になる。
「間伐」をする意味は、樹幹距離を取る事で、光が林床まで届き、風が通り、下草が生えてきて、土壌を守る。
つまり、細くて生枝葉の少ない木を伐るより、大きくて葉が茂った木を伐る方が間伐の効果は高いんだ。出して「木材」から「材木」に替えれば、山主さんにお金を払える。マザーツリーを伐らないのは、山の神に対する礼儀みたいなもの。
小奇麗な格好をした活動家たちにはわからない、現場の真理です。
そして、僕が最も大切だと思っている思想。それが、人工林は手入れして、天然林は見守るという考え。一般に森の一生は800年で極相に達し、それを繰り返す。少なくとも、一人の人生では最初から最後まで見られない。
人工林になる前(僕たちの爺さんが若いころ)、この国の森はそれぞれの気候風土に合った植生で、何百年、何千年、粛々と営みが続いていた。それを伐り、人工林にしてしまった。これについては、国の方針、爺さんたちの子孫への思い、戦争の後の復興、いろんな事が重なって、その当時では正義だったんだ。
その時の森林は、この辺だと落葉広葉樹(コナラなど)か落葉照葉樹(樫など)がそれぞれの枝葉を上下左右に伸ばし、太陽の光を受けて成長していた。秋になると、紅葉して水を上げる量を制限し、葉を落として太陽光の少ない冬に備える。実を落として、次の世代へ繋ぎつつ、森の動物たちの糧を作ってきた。
その時に林床に落ちた実は、土に埋まった状態で光が入るのを待つ。これを「埋土種子」という。ニンゲンが伐った広葉樹たちの「埋土種子」は芽を出す前に、人工林にされた土の中で光を待っている。数十年でも光を待つ「埋土種子」この実たちは、その地で脈々と生きてきた樹種だ。
つまり、間伐して光を入れてあげれば、「埋土種子」が実生で芽を出して、育つ。
その幼樹たちが大きくなるのに、数十年かかる。
だから、僕たち木こりは、自分の仕事の、本当の成果を見る事は無い。だけど、結果は知っている。母なる地球に任せれば、僕たちが死んだ後、ちゃんと本来の姿に戻してくれる。
大好きなきょんきょんが、いくらその土地にあったとは言え、ドングリから育てた苗をまた植えるという、ニンゲンたちの自分勝手な自己満足を良い事として信じているのが、とても悲しい。
もう一度言う。
人が植えてしまった林は、徹底的に手入れをする
天然の森は、徹底的に見守る。
里山から萌芽更新を促すような方法で、山の恵を摂りすぎない範囲で頂く。
ニンゲンの能力を過大評価してはいけない。消費する事しかできない、愚かな種なのだから。
木こりの戯言
昨夜は涼しかった。もちろん、エアコンはオフ。窓開けて、扇風機弱風で寒いくらい。
24節気では「立秋」それを意識して周りを見たり、肌感覚に注意を向けてみる。
田んぼではようやく、花が咲いて穂が出始めた。
日の出が遅くなり、赤とんぼが急に増えた。朝、僕の家の周りは鳥の声で満たされるんだけど、明らかに変化してきた。昼間の暑さはキツいけど、屋根下ならば空調服無しでも良くなった。
仕事を終えて家に戻り、ボイラーを焚きつつ稜線を見ると、夏至の頃から比べて、早い時間に南寄りの場所に太陽が沈む。コオロギが鳴き始めた。
日が昇る、日が沈む。これは僕たちの見た目の話。実際には、恒星である太陽は動いてなくて、惑星である地球が自転(時刻)と公転(季節)をすることで、日が沈むように見える。
僕は子供の頃にこの事実を知り、それ以来この大宇宙にぽっかりと浮かんだ母なる地球が、堂々と回転している様を想像するようになった。日が沈む(ように見える)時、太陽は動いてなくて、自分が立っている大地が、この大きな地球がダイナミックに回っていて、自分の位置が太陽から離れてゆくのを想像する。ちなみに愛知県あたりの、地球自転速度は時速1300kmくらい。これはマッハ1に相当する。これを40億年以上、変わらずに回り続けているこの星。自転しながら公転していることで(地球の公転速度は時速10万キロ以上、マッハ80を超える)、ついさっき居た場所は、今は宇宙空間のどこか。
重力と自転の遠心力のバランスで、重力が少し強い状態で、地表にくっついているだけ。重力とは、この地球が僕たちを引き寄せているチカラ。
何て神秘的で素敵な事なんだろう。身の回りに起こる事象の全ては、引き合って、収まるところに収まる。それが万有引力の法則。
人間関係もそうだ。誰と魂を呼び合うような出会いをするか、それは神様と約束された事だと思う。誰にも知られず、愚直に事を成すことで、それは自分に「自信」として返ってくる。それが宇宙貯金。
それも地球の力が関係していると思う。
木を伐る時、受け口を掘って、追い口を入れてゆくとあるタイミングで木が動き始める。そして、動き出した木は止められない。地球に引かれて大地に向かって倒れてゆく。
重力(引力)って、本当に不思議で、時空を曲げられる(次元を超える事)のは重力だけ。アインシュタイン理論だ。映画インターステラは深くアタマに残ってる。地球以外にも当然、重力は存在していて、ブラックホールが光も通さないのは、想像を絶する重力が光を吸い込んでしまうから。それは時間をも超越したチカラとなり、次元を超えてしまうと考えられている。
生き物である「木」と対峙して疲れた身体だけど、火を焚きつつ、そんな偏屈な事を考えるのも、周りを名も無き山々に囲まれて地味に暮らすこの場所だからこそ。

師匠の教え
いくら浄化に贅を尽くしても、
私たちは山が水を生むようには
美しい水を生むことはできない
とどのつまり、水を守るには山を守るしかない。
そして、その山を守るには、
山を守る人を守るしかない
我が師匠、斎藤和彦の小屋に貼ってあった言葉より
僕の仕事(間伐)は、その結果を自分の目で見ることはありません。仕事の成果は、30年~40年後にしか現れないのです。
まだ見ぬ子孫に、当たり前の地球を残すことが僕たちの使命です。
一旦、人が植えた森林は、人が手を入れ続けるしかありません。それが間伐です。
間伐することで、林内に光を入れます。後は母なる地球に委ねます。地球環境を守りたいのなら、伐ったら見守るだけです。
人間が痛めつけた環境は、地球自身の自己再生能力で再生するしかないのです。
人間にはこの星を元に戻す能力などありません。治し方も知らないまま、壊し続けてしまったのですから。
たった百年の愚行は、この先何百年もかけて償っていかなければならない。
能力も資産も何も無い僕ができること。それは
「炭やきを通して、火の文化を守る」こと、
「山を手入れして水を守る」こと、
「間伐した木を挽き、「命の箱」を造り、きちんと使うこと」。
たったそれだけ。
僕が誇りを持って取り組む仕事です。

私の仕事
ネットの上では、素人がいかにもいい事をしている顔で「日本の山を造り、手入れする」だと。
山を造るなんて、人間の能力ではできない。せめて、植えてしまった木を伐ったり、天然の木を少し頂いたりすることくらい。
災害が起こると、上流の山を守りましょうと、流行みたいな声が上がる。それを自分の使命のような悲壮な顔つきで語る人が出てくる。頭でっかちで、能書きばかり。能力の伴っていない理想論ばかり。
今は、自分の能力をわかっているつもりだし、発する言葉も減った。その分、黙って仕事を進めているつもりだ。
そして、たまにこうやって、恥を忍んで発信している。
僕の中で「山守・水守」でありたい気持は日々強く、大きくなっている。
山の懐で生き、木を伐り、挽き、炭をやく。山や木を知るほど、それ(机上の理想論)がどれだけ自惚れた考えかを思い知る。
水源地に自分の山を持ったことで、現実が重くのしかかる。そんな簡単なことではないんだ。森林ボランティアが遊び半分でやる「仕事」ではない。
人工林の間伐が遅れているのは事実だけど、それが災害の原因では無いよ。小さな一因ではあるけど。
人間ごときの仕業で、大自然が変化するなんてほとんど無いと思う。何故なら、人間はこの地球の生態系からは外れている。生態系に対して何も生産できず(食物連鎖の外にいる)、消費することしかできない、愚かな種だから。
その程度の能力しかない。自然を少しでもコントロールできるなんて考え、自惚れでしかない。
異論も反論もあるでしょうけど、実際に山で暮らし、山の恵みで生かされているモノの声です。山には絶対に勝てない。
時々起こる災害も、こうやって何億年もリセットし続けてきた。
地球が怒っているとか、大地が泣いているとか、スマホの画面を見てるだけで、現場に立たない人が言っても、何の説得力も無い。山は本当に怖い。
僕がこんなに山を愛し、大切に思っていても、山や木々は僕のことなど何とも思っていない。というか、そんな事を思考する事もなく、DNAに刻まれた「生きる」ことが「仕事」となる。
大地の力である重力と、太陽エネルギーと、空気と、水。たったそれだけのことしか関係しないんだ。
大自然は冷たいものです。あっけなく、そこにいる動物の命を奪う。そこにあるのは、その真実だけ。それが自然の真理。
今夜、遥かなる大宇宙を見ながら、宇宙(そら)に想いを馳せつつ、自分のちっぽけさを痛いほど感じた。
「地球の笑顔が見たい」って、反吐が出るような言葉。地球は笑ったりしねえよ。泣きもしない。単に、物理的、科学的事象の連続でしかない。
そんなことを思いつつ、山の神には自分と自分の周りの人たちの幸せを祈願する。僕にできるのは、自分がやりたいことを、自分の限界までやり続けるだけだ。誰かの評価や「いいね」には背を向けて、人知れず小さなことを積み重ねるだけ。
雨と風が止み、日が差す。太陽は、地球上のことなど関係なく、ただそこで燃えているだけ。
その事実を深く腹に落としつつ、やはり母なる大地と父なる太陽だと思う。ネイティブアメリカンの考えに深く共振共鳴する。
名も無き山の頂にはそれぞれ神が棲む。一つの森は、それ自体が生命体みたいだと思う。
矛盾しているようだけど、その二つの考えが妙に、バランスよく頭の中を占領している。
僕が仕事している山は水を生み出しており、名も無き山の沢と都会のマンション蛇口とは文字どうり直結しているんだということを語り続け、夢のような田舎暮らしをカッコよく見せるのではなく、生産者として、愚直にやっている姿が背景に見え隠れするような事を伝えたい。
肝心なのは、まず僕らが本物になること。僕らが本物であり続ければ、同じ場所を目指す人はたくさんいるはず。特別な能力も、体力も、若さもいらない。ひたむきに本物を目指す個人がそれぞれのリングで頑張れば、それが数年後には穏やかな幸せに変化しているって思う。
したたかに、静かに、堂々とやってゆこうよ。

夏至を迎えて
梅雨らしい天気だ。外仕事はキャンセルして、落ち着いていろいろ終わらせた。田んぼも水がたっぷりで落ち着いて見える。
何より、今日も誰とも会わずに自分の段取りで動けることが幸せ。
僕が大切に思ってる人が、職場上司の理不尽な我が儘をぶつけられて、すごく嫌な思いをしてることを知り、話を聞くことしかできなかったけど、「心が随分軽くなった」と言ってもらえた。その人本来の強さに、自分で気付いてもらうのに、ほんの少しだけ役に立てたようだ。
工場で少し仕事して、昼飯ついでに家に戻ってきて、1時間ほどハンモックで昼寝して、今はこんな時にしかできない、地域への提案書を作り始めてる。
誰かに指示された事でもない。地域から依頼された事でもない。僕が勝手に考えている事を形にしようと思う。この提案の先には、当然だけど僕のメリットになることを描いている。実質的な利益になるのはずっと先だし、僕には直接利益にならない事かもしれないけど。事業と絡む話。
すぐに稼ぎにはならないから「仕事=ライフワーク」として意識する。
僕は個人事業主の職人だから、自分にメリットのある事しかしない(それしかできない)。そのメリットとは、承認欲求を満たす事や目立つ事ではない。自分で営業して、高めの見積もりして、仕事して、請求して回収して、経費(ほとんどがチームで頑張ってくれた人への支払い)を払う。残りは僅かだけど、生活するのには充分な額。これは生きるための真剣勝負だ。小銭を熊手で少しずつかき集めるような生き方。
「仕事=ライフワーク」と「稼ぎ=ライスワーク」の狭間でもがいているオトコのアウトプット。
脱サラした時から貫いている事それは、自分のやりたいことをやる。結果的にそれが、誰かの役に立つならとても幸せな事。ちょうど、花は咲くために生きていて、それが結果的に役に立っている。「愚直に生きる事」を生業にしたい。世の為人の為なんて、そんな事をする余裕なんて無い。
自分の生き方を自分で押し進めてゆく覚悟みたいなもの。組織に守られた薄っぺらい正義感で、机上の理想論をどや顔で語るような、遊び半分の活動家たちとは全く違う立ち位置。
今日、工場でいろいろやっているとき、無性に裸足で地面に立ちたくなった。幸いな事に僕の工場の真ん中は舗装されておらず、大地が出ている状態。そこを裸足で歩きつつ、足裏に意識を集中する。靴を履いていると気づかないけど、大地を直接踏むと、地球は同じチカラで押し返してくる。たったそれだけの事なんだけど、何だか嬉しくなる。僕は大地に近い場所で汗を流す事こそ、尊いと信じている。だから一次産業に身を置いている。
活動家たちと違うのはそこだと思うんだ。僕の考えは、地域には本業で貢献すべき。そして、その仕事は大地に近ければ近いほどいい。もちろん、そうじゃない仕事を否定したりしないけど。
誰とも会わず、自分の本業をしながら、大地を踏みしめる。
ホントに儲からないけど、豊かな気持ちになれる。
明日は夏至で、太陽と地球の位置関係において、とても大事なポイント。明日を境に、少しずつ陰へ転ずる。陰とは、悪い意味では無くて、樹木で言えば強い冬目を作る時期になるという事。
余談だけど、夏至の頃が最も太陽エネルギーを強く、多く受けているんだけど、一番暑くならないのは、この地球そのものが蓄熱の過程にあって、約1カ月後にその熱が放熱に転じることで、北半球が最も暑い時期になる。そのスケールと大宇宙の営み。
ホントに人間関係で悩んだり、凹んだりするのって小さな事。相手の不機嫌は相手の問題。離れてゆく人とはそれだけの縁。
僕はいつも、大宇宙にぽっかり浮かんで、堂々と回転しているこの星を想像する。その表面にくっついてるだけの、ちっぽけなニンゲン共の右往左往している様が、何だか面白いなって思う。

想い
山あいの、製炭と製材 工場で煙を上げ、木を挽く。それを生業とした暮らし。
収益は少ないけど、山の恵みを頂いて豊かに生きられる実感と、山河に抱かれる絶対的な安心感。
64歳にして、微塵の後悔もない(反省は多々あるけど)今この時。
窯も自分で打ち、炭の原木も、木挽の原木も、木こりとして伐り出して来て、この場所に集約してある。
もちろん、仕事も暮らしも、一人では成り立たず、いつも誰かの助けを借り、心配りをもらってようやく、細々とやっている。
毎回、窯を焚いている時はこんな事をしみじみと想う。
「火(太陽)」、「風(空気)」、「土(地球)」、「水」。
四つの神聖な存在は確かに自分の周りにあって、それを意識してみると、お金だけじゃない豊かさは、誰でも享受できるんだと気付く。
それを教えてくれるのが、山河の存在なんだなあ。
誰かにどう思われているか?よりも、自分がどうありたいか?
の方が大切な指針となる。
世間は派手でカッコいい事を称賛するけど、そこじゃなくて、
「誰とも戦わないけれど、誰にも負けない」って密かに呟きながら、自分のできる事を、自分の能力のちょっと上を狙って地味に続けるしかないって想う。

私の仕事
工場のある集落内にある、林さんの家横で伐った大きなスギ(危険木伐採補助金案件)。それを、名古屋市内の保育施設にそのままの姿(皮付き8m 枝を30cm残す)で据える事になり、軒下に収めるための造作が必要になった。同じ集落内の頼りになる大工の三郎さんに来てもらって、生木しかも皮付きの状態で墨付け、刻みをお願いした。相当難儀な仕事なのに、三郎さんは嫌な顔もせず、むしろ楽しんで仕事をしてくれた。
林さんも朝から手伝いに来てくれて、三人で始めたんだけど、三郎さんと林さんは幼馴染み。僕の工場がまだ田んぼだったころ(50年以上前)から知り尽くした場所。懐かしい話をしながら、僕はそれをニコニコしながら聞いている。
三郎さんにも大工手間を支払うし、林さんにも原木代を支払う。もちろん、僕も利益の出る仕事。
今回の木は、全幹で寝かせてあり、元から9mの先部分。大きな節もあるし、少し曲がっているので利益の出ない木。それが、特別な設えを施す事で、立米単価で言えば板や柱にする5倍くらいの値段になった。これが、街中の子供たちが見て、触って、木のぬくもりを感じることになる。
僕は自治区の定住促進部や、旭地区の定住委員、町内では会計など、地域のお役もたくさんやっているけど、地域貢献とは、本来本業で行うものだと思っている。
移住者はヒーローになる必要などなく、「地域のため」などと、称賛を求めるような卑しい活動をするのは違う。
地道に、寡黙に本業(できれば一次産業)で地域に貢献するものだと思っている。
二人の大先輩と、僕の工場で仕事をしながら、たまらなく幸福な気持ちになれた。
山の恵みを、都会の子供たちに届ける事。
命ある一本の木を、伐採から搬出、仕上げて配達する。
僕はこの仕事しかできない。
けれど、この仕事は僕にしかできない。
もう少し
自分のしている事を、目を背けずに見てみた。
自分自身に恥じる事は無いか?もう一度自問自答してみた。
もちろん、嘘はない。自分のしている事には自信もあるし、矛盾も迷いも無い。未来は明るいと確信している。
だけど、まだまだ甘い。甘ったれている。
「稼ぎ」と「仕事」。これがキッチリ両立してこそ、本当の大人だ。それは充分にわかっているつもりだし、それがささやかな目標だ。
しかし今の僕は、そのどちらも中途半端だ。志半ばの半端者だ。
生業としてこの道を選んだ以上、後戻りできないし、するつもりもない。
問題は、生臭い話だが、やはり収入だ。ある程度のお金が必要なのだ。正直、ここまで苦労するとは思っていなかった。もちろん、炭が爆発的に売れるとも思っていないし、この不景気の中、そんな簡単じゃない事はわかっていた。覚悟はできているので、現実を受け止める事は容易だ。実に酷い。もう、笑うしかないくらいだ。
確かに田舎で暮らせば、日々の暮らしにかかる経費は想像以上に少ない。だが事業を進めていく以上、これではいけない。少なくとも、山で雇用を生み出すくらいの事業にする必要があると思う。
そして、僕の役割はもっと大きいと思っている。
それは、「火の文化」である「炭」を残していくことだ。「炭やき」という仕事をきちんと継いで、それを誰かに託すこと。エコとか、CO2排出削減も大切だが、それよりも「炭」そのものを残したいのだ。
まだある。心の底から願うこと。それは、山を守り、水を守り、母なる地球そのものを守り、何代もあとの子孫に真っ当な形でこの星を残したいということだ。
貧乏でも、この思いとやる気が失せていないことが救いだ。
今は苦労のとき。僕よりも辛い人は大勢いる。稼ぎは少なくても、自分の好きな仕事を、自分の段取りで進められる僕は幸せ者だ。周りの人に助けられている。一人では何もできない。
特に、地元の人たちにはどれだけ世話になっているか、計り知れない。こんなヨソモノを追い出さずに置いてくれている。それだけでも感謝しなければ。
働く事が恩返しだ。地域への恩返しは本業で頑張る。もちろん、まずは自分のため。自分の周りの人の幸せのため。
そうは言っても、日々の暮らしは本当に苦しい。しかし、食欲はあるし、よく眠れる。根っからの楽天家なのだろう。朝になれば、その日の作業の段取りを考え、身体を動かす。やはり僕は恵まれているのだ。
あの角を曲がれば、神様が微笑んでいるかもしれない。そこに居なくても、次の角にはいるかもしれない。少なくとも、山の神は見ていてくれる。お天道様は見捨てたりしない。
そんな簡単なことじゃないけれど、もう少し、ここで頑張ってみようと思う。
炭をやく
炭やきとは、その熱源となる焚き物である木材が、焚き口の中で酸化燃焼した結果、熱が窯の中に入り、還元雰囲気中(吸気で取り込んだ酸素は燃焼で使ってしまう)、原木が熱分解を繰り返して、「炭素=C」の塊に融合してゆく事です。
最初の二日間ほど、焚き物を燃やしますが、一旦暖まった原木は、約300℃、ほぼ無酸素状態で、自ら炭化してゆきます。一週間程で窯の中に立てた原木が全て炭化を終えると、煙が高温透明になり、「炭」の出来上がりです。
炭化温度になった原木は、リグニンなどが柔らかく変化し、熱振動と呼ばれる状態で炭素以外の成分を、水分と共に木口(主に末側)から排出。それが窯の煙道を通って、煙として排気されます。その煙を集めて冷やしたのが「木酢液」です。熱分解をしながら、「炭素」以外の成分は煙として排出された結果、「炭素」だけが残る訳です。その「炭素」は、原木が何十年も光合成を繰り返して蓄えてきた「炭素」です。今、僕が見ている炭火は、太陽エネルギーそのもの。
大地で育った樹木(樫)が、木を燃やした熱で炭化する。僕が行うのは、窯を作り、原木を集め、焚き口に火を入れるだけ。
自然界からもたらされる恵み、「火=太陽光」「風=大気」「土=地球」「水」が反応し合って繰り返される「炭化」という行程。
これこそがダイナミックな動的な営みですよね。しかも、元素レベルの動き。
最終的にできた「炭」は、炭素固定そのものです。
工場にて
雨も上がり、山村の夕方は程よい気温で気分がいい。家の前の小さな山には、この時期だけ姿を現す山桜がある。もう、散り始めていて、また一年後の楽しみ。
今夜はピンクムーンだそうで、月明かりに照らされる窯は生き物のように息づき、煙を吐き出す。
この時間、工場は不気味なほど静かだ。県道にも車は通らない。
鹿の声が近い。炭やきの匂い、野生動物たちは嗅ぎ分けているはずだ。
眩しいくらいの月。太陽系の惑星たちを見ると、全てが太陽の光を反射している。
僕は夜の方が太陽を強く感じることがある。
雲の切れ間に、冬の大三角が沈んでゆく。
僕は星空から季節を感じることがある。
窯を焚きながら、ちっぽけな自分を宇宙から眺めているような気持ちになる。堂々と回転するこの地球の、北半球の、小さな日本という国の、愛知県と岐阜県の境にある。矢作川上流のこの場所にいる。
この仕事をしていなければ、こんな状況で、この場所で星空を眺めることも無いだろう。
イヤホン越しに小さな音で聴くのは「クリス・レア」。そして暖かいコーヒー。広葉樹が炭化を始めたときに出る、独特の甘い匂い。
つくづく、僕は幸せ者だ。
僕が伐った樫の木に、次なる命を吹き込む作業。
使う熱エネルギーも木を燃やすだけ。
焚き口で焚き火をすることで、窯の中が暖まる。僕は窯の中に原木を立て込んで、火を焚くだけだ。後は、僕が打った(作った)窯が仕事をしてくれる。木が燃えるオレンジ色と熱は、その木が何十年もかけて光合成を繰り返して、蓄積した炭素が酸化燃焼する様だ。木が燃える炎は、太陽そのものなんだ。
窯の中の樫は、還元状態の中で300度を越す環境下、自ら熱分解を繰り返し、高温(最終的には900度くらいまで温度を上げる)になり、炭素の塊になってゆく。それが炭化だ。
僕は炭やき職人だから、この煙の勢い、色、匂い、味で窯の中の現状を把握する。
大好きな仕事をさせてもらっているのだから、眠いとか、疲れたとか言ってられない。実際眠いけど、この星空を眺めているだけでも幸せ。
