ネットの上では、素人がいかにもいい事をしている顔で「日本の山を造り、手入れする」だと。
山を造るなんて、人間の能力ではできない。せめて、植えてしまった木を伐ったり、天然の木を少し頂いたりすることくらい。
災害が起こると、上流の山を守りましょうと、流行みたいな声が上がる。それを自分の使命のような悲壮な顔つきで語る人が出てくる。頭でっかちで、能書きばかり。能力の伴っていない理想論ばかり。
今は、自分の能力をわかっているつもりだし、発する言葉も減った。その分、黙って仕事を進めているつもりだ。
そして、たまにこうやって、恥を忍んで発信している。
僕の中で「山守・水守」でありたい気持は日々強く、大きくなっている。
山の懐で生き、木を伐り、挽き、炭をやく。山や木を知るほど、それ(机上の理想論)がどれだけ自惚れた考えかを思い知る。
水源地に自分の山を持ったことで、現実が重くのしかかる。そんな簡単なことではないんだ。森林ボランティアが遊び半分でやる「仕事」ではない。
人工林の間伐が遅れているのは事実だけど、それが災害の原因では無いよ。小さな一因ではあるけど。
人間ごときの仕業で、大自然が変化するなんてほとんど無いと思う。何故なら、人間はこの地球の生態系からは外れている。生態系に対して何も生産できず(食物連鎖の外にいる)、消費することしかできない、愚かな種だから。
その程度の能力しかない。自然を少しでもコントロールできるなんて考え、自惚れでしかない。
異論も反論もあるでしょうけど、実際に山で暮らし、山の恵みで生かされているモノの声です。山には絶対に勝てない。
時々起こる災害も、こうやって何億年もリセットし続けてきた。
地球が怒っているとか、大地が泣いているとか、スマホの画面を見てるだけで、現場に立たない人が言っても、何の説得力も無い。山は本当に怖い。
僕がこんなに山を愛し、大切に思っていても、山や木々は僕のことなど何とも思っていない。というか、そんな事を思考する事もなく、DNAに刻まれた「生きる」ことが「仕事」となる。
大地の力である重力と、太陽エネルギーと、空気と、水。たったそれだけのことしか関係しないんだ。
大自然は冷たいものです。あっけなく、そこにいる動物の命を奪う。そこにあるのは、その真実だけ。それが自然の真理。
今夜、遥かなる大宇宙を見ながら、宇宙(そら)に想いを馳せつつ、自分のちっぽけさを痛いほど感じた。
「地球の笑顔が見たい」って、反吐が出るような言葉。地球は笑ったりしねえよ。泣きもしない。単に、物理的、科学的事象の連続でしかない。
そんなことを思いつつ、山の神には自分と自分の周りの人たちの幸せを祈願する。僕にできるのは、自分がやりたいことを、自分の限界までやり続けるだけだ。誰かの評価や「いいね」には背を向けて、人知れず小さなことを積み重ねるだけ。
雨と風が止み、日が差す。太陽は、地球上のことなど関係なく、ただそこで燃えているだけ。
その事実を深く腹に落としつつ、やはり母なる大地と父なる太陽だと思う。ネイティブアメリカンの考えに深く共振共鳴する。
名も無き山の頂にはそれぞれ神が棲む。一つの森は、それ自体が生命体みたいだと思う。
矛盾しているようだけど、その二つの考えが妙に、バランスよく頭の中を占領している。
僕が仕事している山は水を生み出しており、名も無き山の沢と都会のマンション蛇口とは文字どうり直結しているんだということを語り続け、夢のような田舎暮らしをカッコよく見せるのではなく、生産者として、愚直にやっている姿が背景に見え隠れするような事を伝えたい。
肝心なのは、まず僕らが本物になること。僕らが本物であり続ければ、同じ場所を目指す人はたくさんいるはず。特別な能力も、体力も、若さもいらない。ひたむきに本物を目指す個人がそれぞれのリングで頑張れば、それが数年後には穏やかな幸せに変化しているって思う。
したたかに、静かに、堂々とやってゆこうよ。







