工場にて

雨も上がり、山村の夕方は程よい気温で気分がいい。家の前の小さな山には、この時期だけ姿を現す山桜がある。もう、散り始めていて、また一年後の楽しみ。

今夜はピンクムーンだそうで、月明かりに照らされる窯は生き物のように息づき、煙を吐き出す。

この時間、工場は不気味なほど静かだ。県道にも車は通らない。

鹿の声が近い。炭やきの匂い、野生動物たちは嗅ぎ分けているはずだ。

眩しいくらいの月。太陽系の惑星たちを見ると、全てが太陽の光を反射している。

僕は夜の方が太陽を強く感じることがある。

雲の切れ間に、冬の大三角が沈んでゆく。

僕は星空から季節を感じることがある。

窯を焚きながら、ちっぽけな自分を宇宙から眺めているような気持ちになる。堂々と回転するこの地球の、北半球の、小さな日本という国の、愛知県と岐阜県の境にある。矢作川上流のこの場所にいる。

この仕事をしていなければ、こんな状況で、この場所で星空を眺めることも無いだろう。

イヤホン越しに小さな音で聴くのは「クリス・レア」。そして暖かいコーヒー。広葉樹が炭化を始めたときに出る、独特の甘い匂い。

つくづく、僕は幸せ者だ。

僕が伐った樫の木に、次なる命を吹き込む作業。

使う熱エネルギーも木を燃やすだけ。

焚き口で焚き火をすることで、窯の中が暖まる。僕は窯の中に原木を立て込んで、火を焚くだけだ。後は、僕が打った(作った)窯が仕事をしてくれる。木が燃えるオレンジ色と熱は、その木が何十年もかけて光合成を繰り返して、蓄積した炭素が酸化燃焼する様だ。木が燃える炎は、太陽そのものなんだ。

窯の中の樫は、還元状態の中で300度を越す環境下、自ら熱分解を繰り返し、高温(最終的には900度くらいまで温度を上げる)になり、炭素の塊になってゆく。それが炭化だ。

僕は炭やき職人だから、この煙の勢い、色、匂い、味で窯の中の現状を把握する。

大好きな仕事をさせてもらっているのだから、眠いとか、疲れたとか言ってられない。実際眠いけど、この星空を眺めているだけでも幸せ。

本懐

窯を焚いてます。

秋から冬にかけて、危険木伐採の仕事が続いていて、本懐である炭やきができていなかった。在庫はあるので販売はできていたけど、早く窯焚きをしたかった。

幸い、現場で支障になる樫を伐る事も多くて、それは施主にお願いして持ち帰っていた。今、窯に立て込んである樫も、足助、飯野、知立で集めた樫。

明日からしっかり焚きたいので、今夜は焚き口を暖める。売るほどある炭の木尻(窯の床に着いていて未炭化部分があるところ)をたっぷりと焚き口に入れてある。それを燃やす。

排気はほぼ塞いで、吸気もわずかに開いてあるだけ。

それにしても、火を入れてから10分で煙がぐんぐん出てくる煙道は、我ながら素晴らしい。修業時代からの集大成として打ったこの窯。過去最高の窯になった。

夜中の山村、工場の裏の川から聞こえる水音、曇っていて見えないけれど、この日、この時間、工場から見える星はわかっているから、あの雲の上に拡がる大宇宙を想像してみる。

焚き口に入れてあるのは、樫の炭と樫の木っ端。比重の高い広葉樹が燃えるこの匂い。というより、香り。DNAを揺さぶるような、この空気感と音、香り。五感を全て刺激してくれる。

これが俺の本懐だと、何の矛盾も無く言える。

自分名義の工場で、自分が打った窯で(たくさんの人に手伝ってもらった)、自分が伐り出してきた樫を炭にする。

こんな面白い仕事に没頭できる環境に感謝。幸せです。

テレビに出ます

https://tv-aichi.co.jp/atarimaeAICHI/?fbclid=IwY2xjawPtheNleHRuA2FlbQIxMQBzcnRjBmFwcF9pZBAyMjIwMzkxNzg4MjAwODkyAAEeUZaXSZFQXPByiwZKQhIxw7eLC2OfV47CLd7TGj6xGwEfcOEpcUCKsC22gOY_aem_I2wqe0QBb0yUARlFQhKC7Q

7日(土)18時30分から、テレビ愛知の「あいちあたりまえワールド」に出ます。尺は15分と聞いてて、僕の工場、製材の様子、伐採シーン、炭火を熾しているところ(取材スケジュールの関係で、窯を焚いてるところは撮影できなかった)、家で薪ボイラー焚いてるところ、しきしまの家でランチを食ってるところ、そして僕が住む集落のみんなで秋葉さんのお祭りをしているところ、みんなで草刈りをしているところなど。

最初はバラエティだからと、あまり期待していなかったんだけど、取材に来てくれたディレクターの熱くて真摯な態度に感銘を受けて、しっかりと取材されました。何と、6日も足を運んでくれて、撮影時間は軽く30時間くらい。それを15分にまとめてくれるらしい。土曜日の超ゴールデンタイム。そこで15分間って、かなり長いと思う。

一週間後くらいから、ユーチューブのテレビ愛知チャンネルで見逃し配信があるそう。

恥ずかしいけど、自治区の取り組み、しきしまの家の事、何よりもこんな小汚いおっさんの仕事を紹介してもらって、一人でも興味を持ってくれたらと願う。

こんなおっさんでも、時々講演の依頼があるんだけど、その時に心がけるのは昔、師匠から言われた事。

100人を相手に話をして、1人興味を持ってくれる。

その1人が100人集まったとして、また1人が実際に動いてくれる。だから、お前は1万人に熱く語れと。

テレビの影響は少なからずあるでしょう。ほとぼりが冷めた頃、僕の後継者が現れる期待を込めて、恥を忍んで出演しました。

いくら浄化に贅を尽くしても


                                                                   
「いくら浄化に贅を尽くしても

私たちは山が水を生むようには美しい水を生むことはできない

 とどのつまり、水を守るには山を守るしかない

 そして、その山を守るには、山を守る人を守るしかない」

もう、20年くらい前。師匠の小屋にある日、掲げられた言葉だ。師匠は、これを僕に読ませたかったんだろう。

師匠は黙って、僕に道を示してくれたんだ。

しかし、具体的な教えは無かった。自分のことは自分でやれと。

師匠は熱い人だった。本物だった。

僕の行動や言葉の中心には、この言葉がガッチリと根付いている。

炭やき、木こり、そして木挽き。全てがここに向かう仕事だと、それはもう信念みたいなモノで、

何で山仕事を選んだのですか?と聞かれたときの僕の答えがこれ。

おこがましいけれど、命の水を守りたい。

あの日、原生林の真ん中で、僕が魂に宿した、小さいけど、熱い炎。
僕が死ぬまで細々と灯し続けてゆく、決して消えない炎。

流域思想

僕は以前から「流域思想」が大切だと思っている。一本の川は、命を育み、モノを運び、あらゆるものを繋ぐ。

流域は運命共同体である。

上流で行われる行為が、下流に深刻な影響を及ぼす。特に、人と人のつながりが絡めばそれは顕著になる。

僕は名古屋生まれの名古屋育ちだ。木曽川の水で育った普通の都市住民だった。実家は庄内川のすぐ近く、濃尾平野で、ほぼゼロメートル地帯だ。でも今の僕は、矢作川の上流に身を置き、山を何とかしたいという想いで毎日自分のできる範囲のことをしているつもりだ。何故矢作川なのか?その答えは明確に出ない。

大好きだったSEの仕事から離れ、山に生涯を捧げようと思ったのは20年以上前だ。誰にも相談せず、自分だけで決めた。たとえ誰かに相談していても、結果は同じだったはずだ。言葉は悪いが、山に関われて、自分自身の存在意義を自分の感性で確認できる場所なら木曽川でも、長良川でも良かった。それでも縁 あって矢作川に関わらせてもらっている。今ではすっかり、自分を矢作川流域人だと思っている。それは、この矢作川を取り巻く環境(山だったり、人だった り)が、僕にピッタリ合っているということ。僕の原点である、段戸裏谷も矢作川源流のひとつだ。

この15年で、大きく変わった部分、変わらなければならないのに、変われない部分、入れ替わり立ち替わりやってくる人々。都市から押し寄せてくる「田舎志向」の人たちと、山村で地に足着けて朗らかに生きている人たち。

僕は僕の立ち位置で、自分のできることを、自分のペースでやり続けるだけだ。

誰かの評価など、我関せず。

僕には、この背中で伝えなければならないことがある。それだけは自覚しているつもりだ。

自分の立ち位置と居場所は、自分で見つけて、そこに自信を持って居座るしかないんだ。

無愛想でも、礼儀は尽くす。どんな試練でも楽しんでしまえる器。そんな当たり前のオトコになりたいと思う。

僕の目標は、名も無き山守・水守だ。頑固で楽天的な炭やき爺なんだ。

大雪

今日は「大雪」天気は小春日和。

24節気によると「大雪」という事。

父なる太陽と、母なる地球の位置関係は、ニンゲンが現れるずっと前、何十億年も前から変わらない。

大宇宙で、絶妙な位置関係と宇宙規模の確立でこうなった。

「この世は、宇宙が全部やってくれる」って聞いた事がある。「宇宙貯金」も納得できる。

どんなにあがいたところで、僕たちはこの星でしか生きられない。無意識に呼吸して植物が作ってくれる酸素を取り込み、生まれた瞬間からこの重力に引っ張られて生きてる。

この二つだけでも、何て素敵で神秘的なんだろうと思う。それを造ったのは「神」だとも言えるはずだ。

僕が想う「神」とは、名も無き山の頂に棲む。母なる大地そのもの、「森羅万象」すべてに宿ると思う。僕は無宗教だけど、仕事に行く途中で、お宮さんに二礼二拍手し、伐採前にはカンブチを立て掛けて「山の神」に祈りを捧げる。そうしないと安心して仕事にかかれない。

ニンゲンも、植物も宇宙に生かされているに過ぎない。

僕の周りを見渡してみても、大好きな人、仕事の仲間、大切な人、大嫌いな人、どうでもいい人。みな、宇宙が全部やってくれた結果なんだな。

天命を待つ心境。

僕は伐り旬の新月期に木を伐り、葉枯らしする(事をスタンダードにしている)。

これこそ、良き時に、やれることをやり、後は流れに任せる。すると、いつかは穏やかで明るい場所に辿り着くって事だと思う。自分一人のチカラなど、小さなものだ。人を愛し、愛され、助けられ、助ける。

今朝、玄関前に白菜と大根が置いてあった。上の上の家の久治さん夫婦だ。何てありがたい。

人に見られていなくても、誰にも知られていなくてもちゃんと生きる事。これが「宇宙貯金」。

「大雪」の今日、暖かい太陽の光を受けて、これ以上の幸せは無いんだと感じた。

ありがたい事に、食えるだけの最低限の稼ぎはずっと確保できている。仕事を下さる人、現場で一緒に汗を流してくれる仲間たちのおかげだ。

経費を払った後、残るのは僅かなお金だけど、これが無ければ電気もネットも使えない。幸いな事に、今は無借金だ。質素に、愚直に、逞しく生きてゆければいいと思う。

自分が自分がと、あさましい、卑しい顔をした奴らもいる。

「火=太陽」「風=空気」「土=地球」「水」の4神は、宇宙の恵みそのものだ。その恵みは、卑しい奴らにも平等に届く。「宇宙」に全てを委ねればいいんだなって思う。もちろん、自分ができる事は全力でやる。

玄関先に届いた、優しさの塊である白菜と大根が、そんな宇宙に馳せる想いを呼び覚ましてくれた。

百人の人に・・・

薪ボイラーを焚きながら、冬の夜空を眺めながら、考える。薪は全て、自分で伐り出した木だ。

いろんな人が、いろんな事を言う。デリカシーの無い、下品な奴もいれば、こんな僕に暖かい言葉を投げてくれる人もいる。

宇宙(そら)を眺めていると、本当の優しさとか、強さとか、人間らしさって何だろうと思う。

宇宙(そら)に想いを馳せ、自分の足元をもう一度確かめる。

自分のしている事に迷いは無いが、多少の不安は絶えず、影のように付いて回る。

百人の人にそしられても、

一人の正しい人に褒められるように。

百人の人に讃えられても、

一人の正しい人に笑われないように。

この言葉を思い出した。何かをしようとすれば、人はああだのこうだの言う。

「一人の正しい人」というのは、揺るぎの無い自分自身なのだと思う。

父なる宇宙(そら)は、無言で僕を導いてくれる。

今年もあと一か月

今朝は寒かった。軽トラ荷台カバーも真っ白。まだ、窓は凍っていなかったけど、あと今年も一か月。

寒くて当然。タイヤはすでにスタッドレスに替えてあるけど、またこの季節がやってくる。

山仕事をしていると、不思議な感覚になる。

多分、命の源に触れるからなのだろう。

母なる大地と、父なる宇宙(そら)をつないでいるのが山の木々たちだ。

大地に根を張り、その恵みである水と養分を吸い上げ、宇宙(そら)に向かって枝葉を伸ばし、唯一地球外から入ってくる太陽光エネルギーを取り込み、反応し、蓄える。

その木々は、酸素を造り、落葉広葉樹なら毎年葉を落とし、寿命が来たときに、自らの身体を大地に預け、再び土を肥やす。その腐葉土だけが、本当の命の水を生み出す事ができる。

命の水は、山が造りだすのだ。僕たち人間が、どうあがいても命の水を造りだす装置はできない。悲しいけれど、人間にそのような能力は備わっていない。

命の水を守るには、山を守るしかなく、山を守るには、山を守る人を守るしかないのだ。

先人たちが植えてくれた木々だ。無駄にする訳にはいかない。

今は伐るしかない。

一旦人が手を入れた森は、人が手を入れ続けなければならない。

自然の摂理を無視して植えてしまった人間の愚かさ。

けれど、今はそれを議論している場合ではない。日本中で今すぐに間伐を待っている森は600万haあると言われる。だから、間伐する。

僕たちの世代は伐る世代なのだ。

森を大切に思い、未来へ想いを馳せるなら、そこにある「埋土種子」と伐った事によって入る太陽の光に委ねる事だ。その山の外から持ち込んだ種や苗を植えたら、それが広葉樹であろうと、人工林を作ることになる。

人が植えた木は、徹底的に管理、手入れをする。

実生で出た木は、徹底的に見守るだけ。

間伐したあと、その森はゆっくりと本来の姿に戻っていく。まあまあの状態になるのは恐らく、7~80年先だ。

僕が生きている間には結果を見ることはない。僕はそれをとっくに覚悟している。

それが山を守ることになるのだ。

金持ちになること、有名になることはとっくの昔に諦めた。

諦めたというより、そんなこと、どうでも良くなった。

もちろん、食ってゆくために木を伐り、挽き、炭をやく。それは「稼ぎ=ライスワーク」

本当にやりたい事「仕事=ライフワーク」は、

名も無き山守になりたい。

ただ水を守る人になりたい。

また戯言を・・・

現場は順調で、予定より早く進めている。今日はゆっくりと風呂に入って、久しぶりに、ネイティブアメリカンの本を読んだ。そこに書いてあった北山耕平さんの言葉だ。

「モンゴロイドの末裔として、われわれが便利な暮らしを追いかけるなかでなにを失ったのか?」

脳味噌に直接響くような問いかけだ。

森羅万象、石ころ一つにも神が宿ると考えるネイティブの思想に通じる。

大地に心があるという発想。これはガイア理論にも通じる・・・自分以外の全てに感謝する心・・・それはマタギの魂にも見て取れる。

母なる大地という事なのだろう。自分は大地から生まれてきたという自覚みたいなものか。

この星が無ければ、自分たちは存在しないのに、自然に存在する物質全てによって生かされている(僕たちは地球に生かされている)だけなのに、母なる地球と父なる太陽からの、自然の恵みだけが(地球に外から入ってくるエネルギーは太陽の光だけであり、それ以外は全て地球上で輪廻循環している)、僕たちを生かしてくれているのに、今の僕たちは食物連鎖の中に入る事すらできない。

僕たちがこの 星に対してできる事は、今までしてきた事を反省し、少しでもこの星にダメージを与えないようにする事だけだ。

地球が自ら再生していく様を静かに見守り、決して邪魔をしない事だ。

僕たち人間は、消費する事しかできない。米や野菜を作るなどと言っても、結局この星の恵みを頂いているに過ぎないのだ。

毎日山懐で過ごす僕が、自然の中で、より鮮明に感じる、何とも言えない居場所の無さがそれだ。「自然の中の不自然」とでも言おうか。

どんなに憧れても、僕たちは生態系ピラミッドの中に入れ ない。自らの肉体や生命を、他の命が生きる為に捧げる事をしなくなった(食物連鎖で消費するだけの種)僕たち人間は、生態系ピラミッドに入る事を許されないのだ。その疎外感はきっと、環境を 壊して自分たちの発展しか考えてこなかった僕たちに対する無言のメッセージなんだ。

人間だけが突出して発達しているのではない。地球上で人間だけが孤立して いるのだ。

地球を含めた宇宙に、僕たち人間が「私はあなたのおかげで存在しています」と祈りと感謝を捧げても、宇宙(そら)は「それがどうした?その事実は私に対し、なんの義務感も生じさせない」と、冷たく言い放つだろう。

そもそも、「生態系」などと、人間が勝手に考えたしくみだ。山の生き物たち(大地も草も昆虫も鳥も・・・)は、自らのDNAに深く刻み込まれた、それぞれ本来の姿を全うする事だけを生きる目標にしている。「生きること、死ぬこと」が仕事なんだ。死してなお、食物連鎖にその身を捧げる。自分が生きてきたその場所に命を繋ぐ。

人間も森羅万象の一部ならば、本来あるべき姿を全うする方法を考えたい。

不必要なモノに溢れた贅沢で便利な暮らしが「豊かな暮らし」なのか?

本当に「豊かな暮らし」とは何なのか?勝っただの、負けただのつまらない争いと欲から身を引き、僕は名も無き山守・水守として暮らしてゆきたい。金持ちにならなくても、有名にならなくても、人から褒められなくてもいい。

小さなことを積み重ねる方法しか知らない、このどこにでもいる普通の男にできることは知れている。

小さな洞の主として脈々と命を繋いでゆこうと決めた。

こうやって答えの出ない問いかけを、ずっと続けてゆこうと思う。

変わらぬ想い

10年前に書いた自分の記事が流れてきた。

歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自らせきたてて短くする。

天地は、元来、広大なものであるが、心根の卑しい者が、自ら狭くする。

四季は、元来のどかなものであるが、あくせくする者が、自ら煩わしいものとしている。

始まりと呼ばれるものは、しばしば終末であり、終止符を打つということは、新たな始まりである。

終着点は、出発点である。

人は大きな目的をもってこそ、おのずから大きくなる。

若い人には若い日の花があるのと同時に老いたる人には老人の日の花があるのだ。

60歳を過ぎたけど、老いへの恐怖って、実はほとんど無い。

自惚れかもしれないけど、未来は明るいし、俺はカッコイイ爺さんになってる(はず)。

そうなるためには、たった一つ。自らに課すことがあるんだ。

それは

「誰とも戦わないけれど、誰にも負けない」

ってこと。

全ては母なる地球のリズム。

何もかも欲しがるのはやめて、自分に正直になろうと考えている。

やりたいことはこの胸にしっかりと宿っている。やらなきゃならないことはハッキリしている。

やってはならぬこともわかっているつもりだ。

自分の立ち位置、役割も理解しているつもり。

大切なのは、誰かにどう見られているか?じゃなくて、自分がどうありたいか?頑固だが、楽天的に筋を通す。やせ我慢しても、決して下品にならず。

この歳でカッコつけても仕方ない。誰かの評価は、良い事も悪い事も受け流す。不愛想でも、礼儀正しく。

そろそろ終い方も考えなきゃいけないけど、こんな偏屈者の跡継ぎを見つけて育てるまで、まだまだ終わるわけにはいかない。