自分を信じ、汗を流して働こう



随分前に観た映画のセリフ。ネイティブアメリカンの生き方を知った人が呟いてた言葉。すごく共感できた。



かすかに聞こえる声は誰の声だろう?

呼びかけるのは誰だ?

心に響く声は何だろう?

私をどこかに導く?

新たな始まりだ。 何かが始まる。

自然の恵みにあふれる土地。

ここは実りの大地。

自分を信じ、汗を流して働こう。

アースデイ?

昨日はアースデイ(だったそうだ)。正直、ピンと来ない。

母なる大地を、山を相手にしている僕には、毎日がアースデイだからだ。今日も夕方まで工場で仕事して、家に帰ってから薪ボイラー焚いてる。玄関を出て目に入る景色は、落葉広葉樹の里山。この時期、黄緑色の新緑で溢れ返る。

これこそ、僕にとってのアースデイ。

実はアースデイに積極的に動く人、苦手なタイプが多い。環境とか、自然とか、地球の話を上から言ってくる。正義の味方気どり。自分たちの方が上で「守ってやる」と自惚れた考え。どう考えても、僕たちは母なる地球に生かされている。守られているのは、こちらの方なのに。勘違いも甚だしい。

山で暮らして、木を伐り、それを炭にしたり、挽いたりしている自分にとって、最も大切なのは地球であることは間違いない。むしろ、誰よりもこの星を大切に思っているし、実際に行動もしているつもり。

ただ、それを人に押し付けたり、導いたりすることが嫌なんだ。こうして発信している事も、「自分はこう考え、このように行動している」を書いているだけ。もちろん、承認欲求はあるけど、自分の考えを人に押し付けるのは違う。

昔から、自然農、ヴィーガン、マクロビ、パーマカルチャを全面に、満面の笑顔で近寄ってくる奴らに違和感持ち続けている(全く違和感を感じない、素晴らしい人も、稀にいるけど)。

僕はマックも食いたいし、ケンタも好きだ。夜中にどうしてもカップヌードルが食いたくなる衝動は抑えず、食います。田んぼにも、除草剤とカメムシ防除(最低限の農薬)入れます。土壌改良剤も入れる。化学肥料も入れる(化学肥料については、慣行平均の半分以下にするけど)。

自然農よりも、慣行農法を支持する。トラクタも、田植え機も、コンバインも使う。

毎日車に乗るし、服は化学繊維が多い。スマホは電源入れっぱなし、家ではネットも繋ぎっぱなし。山仕事で、チェンソーはガソリン、ユニックは軽油、製材は200Vの動力電源、炭やきの時も、薪割り機はガソリン焚くし、焚き付けには灯油を染み込ませた鋸粉を使うし、夜の作業は電気も灯す。今更、この便利なアイテムを手放すつもりはない。

もちろん、無駄なエネルギーは使わないように心がけるし、電気もこまめに消すタイプ。

以前、NPOの手伝いでイベントのスタッフなどをした事もあるけど、そこで僕がコンビニ弁当を食っていたら、犯罪者扱いされた。そいつは自然素材の服を身にまとい、食い物に拘り過ぎてガリガリに痩せていた。自給自足を声高に説いていた。

エネルギー問題、教育問題など、誰でも知っているような事を、いかにも意識高い体(てい)で演説していた。僕は薄っぺらい正義感しか感じなかった。

そして、そいつは満足げに、スマホを手にSNSに投稿し、車で帰って行った。あれだけ自給自足を謳っていた奴が、さっそうとガソリンを焚いて去っていった。手を振りながら。

スタッフとして後片付けしながら、もうこんな仕事はしないと決めた。それもアースデイ関連の仕事だった。

お祭りやイベントなら、それでいいけど、本当にこの星の未来を憂うならば、日々の暮らしの中で少しずつ、積み上げてゆくものだし、それは誰かに自慢する事でもなければ、秘密にする事でもない。

それ以来、独りでひっそりと自分の仕事をする事にしたんだ。そのNPOの代表と副代表は、補助金を獲る事だけが目的の、人として信頼できない奴らだったので尚更だ。

大勢の人が集まるような会場で、上っ面の仲良しグループで群れ、無駄な時間を過ごすくらいなら、月の位置を意識し、山河の呼吸を肌で感じながら孤高を貫きたい。

還暦過ぎの山仕事人は、ジャンクフードも食いつつ、今日も偏屈に磨きをかけつつ、独りで働くのです。

日々、地球に対する感謝は深まるばかり。

宇宙に対する畏敬の念は大きくなるばかり。

僕は、こんな僕が普通だと、強く確信しているんだ。

昨夜はこと座流星群の極大日。夜中の北東の宇宙(そら)にこと座が昇ってくる。そう、夏の大三角だ。ヴェガ・アルタイル・デネヴ。

毎日を時間に追われて過ごしている間に、星は巡って夏の星座に移っていたんだ。

母なる大地と父なる宇宙(そら)。結局、これが全てなんだ。

山の暮らしは真っ暗。自分の足元も見えないくらいの暗闇で見上げる星空。それはまるで、エメラルド色の天井みたい。

星を数えていると、自分のちっぽけさが骨身に染みる。

けれど、そんな時間がたまらなく愛おしい。

フリースを羽織り、焚き火をしながら暖かいコーヒーを飲みつつ、流星群を待ちます。たとえ、一個も見られなくてもかまわない。

そんな時間を大切にしたいと思う気持ちを、大切にしたいから。

望み

ネイティブの言葉を紐解いていくと、生きとし生けるもの全ては対等であり、全ての生き物は地球からの恩恵で生かされているとある。僕も心からそう思う。人間 だけがこの星の住人ではない。むしろ、人間以外の生き物の方が多いのだ。そもそも、人間は食物連鎖に組み込まれていない。人間は消費するだけだ。生産して いるように見えても、それは地球の恵みを頂いているに過ぎない。ひたすら、他の種を漁り、無駄な殺戮を繰り返し、地球を痛めつけ、自分たちだけが快楽に酔 いしれている。快楽のために他の命を奪うのは、人間だけだとされる。

46 憶年の間、地球という惑星が育んできた資源を、あっと言う間に使い果たしてしまった。自らの身体を他の生物に捧げない動物は人間だけだ。生態系ピラミッド からも外れている。人間の自惚れが、自分本来の居場所すら奪ってしまったことを考え直すべきだ。人間が動物だった頃、地球は穏やかでとても豊かだったはずだ。

人工林問題。 これは国としての大失敗だ。大造林政策と呼ばれる昭和の大失態。しかし、実際に山に木を植えたのは、里山に暮らす平凡な山の衆であった。孫に少しでも財産を残そうと、歩いて何日もかかる山奥にまで植林したのだ。そんな祖先の偉業を悪く言えない。

植林するときは、間引きを前提として多く植える。その間引きをしてこなかった世代の責任なのだ。高度成長と呼ばれる幻を必死で追いかけるうちに、一時の快楽に惑わされているうちに、見向きもされない山の木は物も言わずにひしめき合った状態で成長を続けた。ただ、その世代の人たち(僕の親世代)が、今のこのニッポンを作ってくれた。インフラも制度もそうだ。みな、子孫のために必死で働いていた。これも偉業であり、悪く言う事はできない。

毎年患者が増えている花粉症は、人間が作り出した悪魔だと思う。適正な林分を保てず、末期的な状況が近づいている人工林では、木々がその危機感から子孫を多く残そうと、異常な量の花粉を作り出す。天然林であれば必要の無い数の花粉が宙を舞う。人間の愚行は、自分たちの健康被害にまで及んでしまっている。実際には、排気ガスや黄砂などが花粉を破壊し、細かくなってしまった花粉の残骸が人の粘膜を通過して、アレルギーを起こすそうだ。花粉そのものの大きさでは粘膜を通らないらしい。実際、僕も含めて山の衆は花粉症とは縁遠い。

結局、自分の首を自分で締めるような行いをしている人間たちだけれど、僕はまだ間に合うと思う。いまから始めれば、きっと間に合う。

「地球は子孫から借りた もの」という言葉を信じ、自分たちにできる小さな事から始めて、微々たる力を結集していけば、何世代か後の子孫たちは救われると思う。

僕は毎日山で暮らしている。都会からやってきたIターン者だ。だからこそ、より敏感にわかる。「自然の中の不自然」

人工林の中に入った時の不気味さがそれだ。コンクリートで囲まれた都会では感じられないくらいの薄気味悪い変化を感じる。人間の驕りが骨身に沁みてくる。植えてしまった木は大切にしなければ。一旦手を入れた森は、責任を持って手を入れ続けなければ。

それが難しいのなら間伐して、植林した木を半分に減らすことだ。当地の人工林林分は、樹間距離が3.6mくらいが良いとされる(相対幹距比SRが、樹高20mに対して18くらい)。1haで3000本植林されているので、樹幹距離は1.8m(1間)になる。すなわち、段階的に、木を半分まで減らす事が理想。本当の理想値はSR20だから、木が成長して、樹高が上がればそれに合わせて(樹高が30mになれば、樹幹距離は6mが理想)また間伐する。SR20とは、樹高に対して樹幹距離が20%という意味で、それくらいのゆったりした樹幹が、森林には必要。

もちろん、その森や地域、地方によって変わるし、人工林を表す指標は他にもあるけど。

林内を片付けたら、後は母なる地球に任せよう。広葉樹を植えたりしてはいけない。どこに、どんな植物が生えるのか?それは神の仕事だ。埋土種子と土着菌が太陽の光で活発に動く。そんなきっかけを与えたら、後は大人しく待つのだ。30年も待てば充分だろう。逆に、それが待てないのなら、森林環境の事を口にする のを止めるべきだ。森の時間は、僕たち人間の時計で計れるような時間ではない。森の時計は優しく、ゆっくりと進む。

自然とは、地球を含む宇宙そのものだ。母なる大地、父なる宇宙(そら)、滔々と流れを止めない子孫たる水。

そろそろ考え直さないと本当に取り返しがつかないところまで行ってしまう。

僕たちにできる事は小さな事だ。今更便利な生活を捨てる事はできない。現実的に、クルマや携帯電話、パソコンが無い生活は送れない。だが、昔の里山に暮らし た人々の知恵をもう一度学び、化石燃料に依存したエネルギー消費を少しづつ減らす努力は必要だと思う。山の恵みに感謝しつつ、エネルギーを使わ せてもらう。

近いうちに必ずやってくる、人口減少を発端とする右肩下がりの世の中。消費するためだけに生産するような愚かさから目覚めて、昔ながらの穏やかな生活に戻る こと。結局、それが一番上品でカッコイイ生き方なのだ。本当に豊かな暮らしとは、昔ながらの里山暮らしであると、僕は確信を持っている。

どんな種であろうと、自然をコントロールできる訳が無い。それなら、人間も動物の一種に過ぎないと、地球の恵みに感謝しつつ、質素に暮らす事が、何よりも大切な子孫の為に僕たちができる事なのではないだろうか。その暮らしの中で重要なのが「火」だ。薪や炭といった、「火の文化」を復活させることである。

「CO2固定」という、地球のための炭(燃やさない炭)と、「火の文化」をもう一度見直し、暖かくて癒される薪炭を復活させて暮らしを豊かにする炭(燃やす炭)の両方を、この地球の為に作り続けることが僕の生涯を賭けた仕事なんだ。

「カーボンニュートラル」って言葉、今ではCO2削減の代名詞のように言われているけど、そもそもの意味は、植物が光合成をして、大気中の「CO2」を吸収、「C(炭素)」として、自らの体内に貯める。それを燃焼させて出るCO2は、元々森林の大気中にあったCO2だから、トータルでCO2を増やしたことにはならない。ってこと。

光合成ができない動物たちは、光合成によって蓄えられた植物を摂取する事で、体内に「C」を取り込む。または、その「C」を取り込んだ動物を摂取する事で、栄養とする。

野菜を採る事は大切だけど、動物性タンパク質を採る事も必要。

活動家たちが机上で、パソコンやAIを使って声高に論じたとしても、それは結局能書きだ。

僕たちの存在は、それ以上でも、それ以下でもない。本来の姿で子孫に地球を返す事が、僕たちの目標であり、幸せであると思う。

それを目指し、ひたすらに黙って炭をやき、山を守り、水を守る。

名も無き緑の防人になる事。それが僕の望みだ。

宇宙(そら)を眺めながら、そう思う。

年度末だけど

年度末。いつもなら何かと忙しく、落ち着かない日々なんだろうけど、確定申告も先月終わらせて、平和な日々。
木こり仕事から夕方家に戻り、薪ボイラー焚きながらあれこれ想いを巡らす。
見上げると、すっかり、春の星座になりつつある。早い時間には冬のダイアモンドが大きく展開していて、今シーズンはそろそろ見納めだなあって思う。
考え事していたら1時間も焚火を眺めていた。
かけがえのない時間を大切に、儚く消えゆくものを愛おしみたい。
宇宙に想いを馳せつつ、現実を見つめる。
思うのは、毎日焚火できる幸福。焚いているのは全て、自分で伐った木。僕が命を奪った相手だ。せめて燃やす事で自分自身を納得させている。
僕に伐られた木々たちは、そんな事とは無関係に酸化と熱分解を繰り返している。木こりである僕は、木々たちを擬人化して「痛そう」とか「かわいそう」とは思わない。
僕が生きてゆくために伐らせてもらっている。よく、環境活動家が「山がかわいそう」とか、「木が泣いている」って表現をするけど、木々たち、山河はもっともっと崇高な存在。ニンゲンの所業など関係ない。「生きる事が仕事」である。僕は山は大きな生命体だと考えているけど、それにしたって、僕たちニンゲンのために存在している訳じゃない。「ありがたい」とは思うけど、「ありがとう」とは言わない。
ニンゲンの方がずっと下等な生き物だからだ。私欲にまみれた汚い存在。そもそも、ニンゲンなんて、生態系ピラミッドから弾かれた存在。
それは、自らの肉体を食物連鎖に捧げていないから。法律的な事もあるけど、火葬していることで、ニンゲンは消費するだけの愚かな存在に成り下がってる。
僕の個人的な見解だけど、土葬をやめた頃から、思い上がりと横柄さが現れてきたんじゃないかな。死んだら、その屍を微生物に捧げる事(土葬)で初めて、この星の環境に恩返しできると思うんだ。
それらをちゃんと考え、腹に落とす事をしなければ、この仕事は続けられない。多分、一生答えは出ないだろう。農業だってそうだ。育てた命を収穫して、糧にするのだ。一次産業とはそういう仕事なんだ。キレイ事や夢物語ではできない。現実に目の前の命を奪う仕事なんだ。
せめて、僕が相手の命を絶っているという事実を受け入れようと思っている。
木を生き物として扱おうと決めている。それもあって、炭の原木も、製材の原木も、自分で伐って運ぶというスタイルを貫いている。大したことではなくて、普通ではないかもしれないけれど、僕にとっては当たり前だと思っている。
派手な活躍を自慢するより、日々の質素な生き方を密かに喜びたい。名も無き山の頂に棲む神に見守られて、誰にも知られなくとも、誇り高き炭やき人でありたい。
有名になる事や、金持ちになる事からは離れて、名も無き山守、水守として、ソローが描いた老人のように枯れてゆきたい。もちろん、金は必要だし、いくらあってもいいんだけど、有り過ぎても結局道具を買ってしまうだけ。
お金を直接もらうより、正当な対価が頂ける仕事が欲しい。儲けるより、いい仕事がしたいという欲求の方が強い。
などと、焚火しながら思い巡らせる。偏屈なおっさんである。

消えゆくモノを大切にする。掴めないモノを掴みに行く。儚さの芯にある強さ。

それをあえて、主張する事なく、秘めているのが「炭」なんじゃないかなあ。

と思う。

雨の日は

朝から雨で、予定が延びてしまった。午前中はのんびりして、午後は工場に来てる。

ユニックリモコンのアンテナ修理と、こんな日だから、じっくり目立て。

刃を新しくした241だけど、新品の刃は切れない。僕はリールじゃなくて、一本ずつ買うので、箱に入って届く。箱の中では、刃と刃が当たっていてもおかしくないし、新品の刃より、自分で目立てした刃の方がよく切れる。

昔、山仕事の師匠から「なあ、お前も山師なんだでな。間違っても、目立てした刃が新品みたいに切れるなんて言うなよ」と。新品の刃は、メーカー(オレゴンの91VXL)の工場でとりあえず形を作ってきているだけ。

上刃の角度も僕の使い方では鋭角過ぎる。僕は広葉樹も伐るから、上刃は25度。デプスも浅め。上刃の角度は実はそれほど重要では無いけど、揃ってた方が美しいので、角度ゲージをバーに付ける。ヤスリホルダーは使わず、フリーハンドで。明るくして、老眼鏡かけて、何故かいつも、目立ての時はソニー・クラークを聴きながら。

刃を買うときは、3本セットで買っているので、あと新品が2本。これも同じように目立てし直す。チェンソーに付けた状態で目立てするので、目立てが終わったら試し切りする。新品のソーチェンは必ず伸びるので、こうしておくと、次に現場ですぐに使えるようになる。

雨の日はこんな過ごし方。

「仕事」

家から30分ちょっとの現場を下見してきた。
施主が育った田舎の先祖から引き継いだ山だ。
実家をリフォームして、そこで飲食系の仕事をしたいと言われる。
せっかく山があるのだから、その木を使いたいという意向で、巡り巡って、僕のところにその人はやってきた。
まだリフォームプランを設計している途中なので、木拾いができておらず、どれくらいの材木が必要になるのか不明な段階。
それでも、まず山を見てから話を進めたかったので、月曜日に行ってきた。地元の大工さんも一緒に。
典型的な人工林。スギが多いけど、ヒノキもある。大体、数反の山が実家周りに点在していた。大工さんから、柱材で50本という大まかな数量を聞いたので、それなら大丈夫と答えておいた。
施主にはまず最初に、大工さん手配で材木を買った方が断然安いと伝えた。それでも、気持ちとしては「先祖の大切な木を使いたい」と言われる。あとは、木拾いが終わった時点で、見積もりを出して、金額的にOKになるかどうか。土台も一部傷んでいるし、柱も継ぐ箇所がある。梁や桁は替えなくてもいいだろう。
仕事を請けるとしたら、今年の秋の伐り旬、新月期。葉枯らしして、搬出して、工場に運んで大きく挽いて、桟積みして天然乾燥。
大工さんは、今時そこまで一人でやる山師が居るのか?と驚いていた。
だけど、僕にしてみれば普通の仕事なんだ。当たり前の事なんだけどな。
「俺はこんな仕事しかできない。けれど、この仕事は俺にしかできない」と、密かに宿している身としては、請けられたらホントに嬉しい仕事だ。
とりあえず、木拾い表を待ちます。

木に対する考察

人間は、山に対してもっと謙虚になる必要がある。木は移動して逃げることができない。そこに居続けて、自分に降りかかる問題に黙って立ち向かうだけ。

 僕の師匠は大きな木のような人だった。「木は偉いぞん」が 口癖だった。一旦根を降ろしたら、とことん、そこで生き続ける。何十年も。何百年も。僕もそんな「木のような人」になりたいんだ。

この動画はパタゴニアが作ってるから、それを前提で観てみる。

「木は会話する」のスーザン・シマードさんが出演されている。愚直な観察と深い考察。明瞭な解説。冒頭からドライでアカデミックな話に引き込まれる。途中、日本人の残念なコメントに少々ガッカリしながら。

僕は木を擬人化して、「木はあなたを嫌いとは言わないから」などとは言いたくない。木や山は、そんな存在ではないと思う。もっともっと崇高で、人間なんか比べることもできないくらいの存在だと思う。同列に並べるなんて、おこがましい。

木に対して強い畏敬の念を持ちつつ、僕は木こりなので、木を伐る。

スギやヒノキ(人工林)は、畑に植えられた農作物と同じで地権者があって、植栽し、育て、収穫、収入になる(僕の場合、自分の山で伐るより、依頼されて伐採、搬出、製材が収入となる)。人工林だって、自然の一部だし、生き物である事に変わりはない。

樫やナラは天然林。ドングリ系はいいタイミングで伐れば萌芽更新して、その命を絶つ事は無いけど、僕が関わる多くの場合は萌芽更新できる樹齢を超えてしまっている。炭にするために、工場にできるだけ枝先まで持ち帰る。特に広葉樹(ほぼ天然実生)は、針葉樹よりも自由に枝を伸ばしたり、自らを捻ったりしていて、重心が掴みにくく、木も固くて伐採は難しいし、危険だ。伐られまいとするチカラが明らかに大きい。針葉樹も、広葉樹も、大地に根を張り、枝葉を伸ばしている。それを伐採するには、力学的な視点と、自分がイメージしたとうりに木が倒れるように導くスキルが必要。

もちろん、安全面には最大限配慮する。僕は必ず、山の神に挨拶してから刃を入れる。木には痛点も無いし、思考する事も無いと言われている。脳では無く、DNAが本能で動かしているのが、スーザン・シマードさんの言葉からもわかる。

伐採するとき、最後は技術ではなく、祈りに近い心境。準備し、やると決めたら躊躇なく、平常心でチェンソーを入れる。ある瞬間、力学的に倒れる方向にモーメントが効いた後、木は観念したように、母なる大地の重力に引かれて倒れてゆく。倒れ始めた木は、人間の力や道具ではもう、どうしようもない。それぞれの木が、僕にその後(木そのものの使い方はもちろん、その山の環境まで)を委ねてくれていると思っている。

山や木を、自分よりも崇高な存在としながら、それらを伐採して生きながらえている(命の危険を感じながら)自分。

この矛盾にはいまだ、明確な答えは出ていないけれど、木の方が崇高な存在である事は間違いなく、わが身を差し出して僕たちを生かしてくれている存在なんだろうなと思っている。多分、肉や野菜を食わなければ生きられない種である「人」が、「いただきます」と食べ物に感謝しながら食う事に近いんじゃないかな。

僕は原生林のガイドもするけど、毎回楽しみにしていたミズナラがあった。僕はそのミズナラに会いに行ってたんだけど、そのミズナラは僕のことなんて相手にもしていないんだ。圧倒的な片思い。絶対的に届かない距離。それは人間が木と付き合う前提だと思う。

森を造るだとか、森を再生する、山を管理するなんて、そもそも無理なんだ。それは神の領域なんだ。人が植えた木を、人が伐って利用するくらいしかできない。あと、多少の天然木を頂く。その他の植物は、人間のためにあるのでは無い。

僕が所有する(固定資産税を払っている)足助の山(2町歩)も約50年前に植林されたスギとヒノキの人工林。急な斜面に岩場だらけ。ここでも木は会話しているのだ。

僕の山も、設楽町の原生林も、この動画に出てきたブリティッシュコロンビアの森も、全部同じだ。山には神が棲む。どんな小さな山の頂にも、神は棲む。そして僕たちを見守っている。

この動画は、そんなことを考えさせてくれた。特に、20分過ぎのスーザンの言葉は深く染みる。映画アバターでも描かれていたような、大地そのものが叡智であるということ。

毎日山の懐で暮らす僕だけど、もう一度、もっと静かに、深く山と対峙しようと思ったのです。

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山を守るには・・・

いくら浄化に贅を尽くしても

私たちは山が水を生むようには美しい水を生むことはできない

 とどのつまり、水を守るには山を守るしかない

 そして、その山を守るには、山を守る人を守るしかない

もう、20年くらい前です。師匠の小屋にある日、掲げられた言葉です。師匠は、これを僕に読ませたかったのでしょう。

師匠は黙って、僕に道を示してくれたんだ。

しかし、具体的な教えはありませんでした。自分のことは自分でやれと。

師匠は熱い人でした。本物でした。

僕の行動や言葉の中心には、この言葉がガッチリと根付いています。

炭やき、木こり、そして木挽き。全てがここに向かう仕事だと、それはもう信念みたいなモノで、

何で山仕事を選んだのですか?と聞かれたときの僕の答えがこれです。おこがましいけれど、命の水を守りたい。

あの日、原生林の真ん中で、僕が魂に宿した、小さいけど、熱い炎です。僕が死ぬまで細々と灯し続けてゆく、決して消えない炎です。

望み

続けて伐採の見積もり依頼が来ている。先週の仕事もそうだけど、自治区でお世話になっている人からの紹介もある。先輩方から、そんな声を掛けてもらうことは、この上ない幸せだ。もちろん、断る仕事だってある。金額が合わなくて、断念する現場もある。

僕の目標は、金持ちになることや、有名になることからは縁を切り、山の神の懐に 抱かれているのを感じながら静かに暮らしてゆくこと。

僕の望みは、形あるものに執着せず、毎日消えてゆくものを大切にするような生き方がしたい。ということ。

孤高を貫き、たった独りでも、抗うべき相手には抗うこと。

誰かに勝っただの、負けただのの、つまらない争いからは身を引いて、地べたを這いずり回ってでも、己の美学を貫きたい。できる事なら、好きな人とだけ関わってゆきたい。

名も無き山の水源地の湧き水を守るために、身体を張るような、そんな生き方に憧れる。

親友岳ちゃんが描いてくれたこの看板。これをひっそりと掲げて、強さからのみ、生まれるような優しい暮らしができるように頑張ろうと思う。