また戯言を・・・

現場は順調で、予定より早く進めている。今日はゆっくりと風呂に入って、久しぶりに、ネイティブアメリカンの本を読んだ。そこに書いてあった北山耕平さんの言葉だ。

「モンゴロイドの末裔として、われわれが便利な暮らしを追いかけるなかでなにを失ったのか?」

脳味噌に直接響くような問いかけだ。

森羅万象、石ころ一つにも神が宿ると考えるネイティブの思想に通じる。

大地に心があるという発想。これはガイア理論にも通じる・・・自分以外の全てに感謝する心・・・それはマタギの魂にも見て取れる。

母なる大地という事なのだろう。自分は大地から生まれてきたという自覚みたいなものか。

この星が無ければ、自分たちは存在しないのに、自然に存在する物質全てによって生かされている(僕たちは地球に生かされている)だけなのに、母なる地球と父なる太陽からの、自然の恵みだけが(地球に外から入ってくるエネルギーは太陽の光だけであり、それ以外は全て地球上で輪廻循環している)、僕たちを生かしてくれているのに、今の僕たちは食物連鎖の中に入る事すらできない。

僕たちがこの 星に対してできる事は、今までしてきた事を反省し、少しでもこの星にダメージを与えないようにする事だけだ。

地球が自ら再生していく様を静かに見守り、決して邪魔をしない事だ。

僕たち人間は、消費する事しかできない。米や野菜を作るなどと言っても、結局この星の恵みを頂いているに過ぎないのだ。

毎日山懐で過ごす僕が、自然の中で、より鮮明に感じる、何とも言えない居場所の無さがそれだ。「自然の中の不自然」とでも言おうか。

どんなに憧れても、僕たちは生態系ピラミッドの中に入れ ない。自らの肉体や生命を、他の命が生きる為に捧げる事をしなくなった(食物連鎖で消費するだけの種)僕たち人間は、生態系ピラミッドに入る事を許されないのだ。その疎外感はきっと、環境を 壊して自分たちの発展しか考えてこなかった僕たちに対する無言のメッセージなんだ。

人間だけが突出して発達しているのではない。地球上で人間だけが孤立して いるのだ。

地球を含めた宇宙に、僕たち人間が「私はあなたのおかげで存在しています」と祈りと感謝を捧げても、宇宙(そら)は「それがどうした?その事実は私に対し、なんの義務感も生じさせない」と、冷たく言い放つだろう。

そもそも、「生態系」などと、人間が勝手に考えたしくみだ。山の生き物たち(大地も草も昆虫も鳥も・・・)は、自らのDNAに深く刻み込まれた、それぞれ本来の姿を全うする事だけを生きる目標にしている。「生きること、死ぬこと」が仕事なんだ。死してなお、食物連鎖にその身を捧げる。自分が生きてきたその場所に命を繋ぐ。

人間も森羅万象の一部ならば、本来あるべき姿を全うする方法を考えたい。

不必要なモノに溢れた贅沢で便利な暮らしが「豊かな暮らし」なのか?

本当に「豊かな暮らし」とは何なのか?勝っただの、負けただのつまらない争いと欲から身を引き、僕は名も無き山守・水守として暮らしてゆきたい。金持ちにならなくても、有名にならなくても、人から褒められなくてもいい。

小さなことを積み重ねる方法しか知らない、このどこにでもいる普通の男にできることは知れている。

小さな洞の主として脈々と命を繋いでゆこうと決めた。

こうやって答えの出ない問いかけを、ずっと続けてゆこうと思う。

変わらぬ想い

10年前に書いた自分の記事が流れてきた。

歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自らせきたてて短くする。

天地は、元来、広大なものであるが、心根の卑しい者が、自ら狭くする。

四季は、元来のどかなものであるが、あくせくする者が、自ら煩わしいものとしている。

始まりと呼ばれるものは、しばしば終末であり、終止符を打つということは、新たな始まりである。

終着点は、出発点である。

人は大きな目的をもってこそ、おのずから大きくなる。

若い人には若い日の花があるのと同時に老いたる人には老人の日の花があるのだ。

60歳を過ぎたけど、老いへの恐怖って、実はほとんど無い。

自惚れかもしれないけど、未来は明るいし、俺はカッコイイ爺さんになってる(はず)。

そうなるためには、たった一つ。自らに課すことがあるんだ。

それは

「誰とも戦わないけれど、誰にも負けない」

ってこと。

全ては母なる地球のリズム。

何もかも欲しがるのはやめて、自分に正直になろうと考えている。

やりたいことはこの胸にしっかりと宿っている。やらなきゃならないことはハッキリしている。

やってはならぬこともわかっているつもりだ。

自分の立ち位置、役割も理解しているつもり。

大切なのは、誰かにどう見られているか?じゃなくて、自分がどうありたいか?頑固だが、楽天的に筋を通す。やせ我慢しても、決して下品にならず。

この歳でカッコつけても仕方ない。誰かの評価は、良い事も悪い事も受け流す。不愛想でも、礼儀正しく。

そろそろ終い方も考えなきゃいけないけど、こんな偏屈者の跡継ぎを見つけて育てるまで、まだまだ終わるわけにはいかない。




私の仕事

木こり、木挽き、炭やきが僕の生業だ。

間伐、伐採、搬出、特殊伐採から、庭木の剪定、草刈りまで仕事を請けます。

「タチキカラ 北三河」これは僕の会社の屋号だ。

社員は居ない。個人事業主です。

「立ち木から」という意味。

 山の30年後に想いを馳せながら、伐る。

 ”良き日“に伐る。良き日とは、伐り旬(秋の彼岸から春の彼岸まで=光合成が穏やかに進んでいる期間)でありなお且つ、新月期(下弦から新月までの一週間)。

 葉枯らしする。寝かせた木は、根との導管が絶たれているけれど、葉っぱはまだ緑色で生きているので、光合成は続く。光合成が行われれば、木の中の水分を使うけど、根からは吸い上げられない。木の生態能力を使って、木の中にある水分を抜いてゆく方法。木の水分は穏やかに抜けてゆくけど、脂分などの成分は残る。そのせいか、葉枯らしした木は(特にスギは)赤身の色が良くなる。幹も、しっとりしているけれど、乾いている状態となる。どの段階まで葉枯らしするかは、その木一本一本で違う。

搬出する。玉伐りして、集材機やポータブルウインチ、ユニックを使って、集める。

運搬する。ユニック集材ならば、そのまま荷台に積んで、工場まで運び、降ろす。

挽く。工場の製材機で丁寧に、目切れしないように挽く。製材機の精度は、6mで1ミリ。僕の製材機は、長さは8m(頑張れば10m)、直径80cm、重さは2tまで挽ける。

今書いたのは、材木を生産している僕の仕事だ。基本的に全部一人。けど、現場(山仕事)は必ず二人以上でやる。

でも、本当は「炭」で食ってゆきたい。僕の本業であり、本望は「炭やき人」なんだ。脱サラして設楽の斎藤和彦さんに弟子入りしたのも、「炭やき」になるため。

針葉樹は伐り出して、挽く。

広葉樹(樫・ナラ)は伐り出して、炭にする。

親友岳ちゃんがずっと前に描いてくれた看板。

僕はこれを一生使い続けようと思っている。

 このロゴマークも岳ちゃんが描いてくれた。

自分だけの旗を揚げているようで、すごく気持ちいい。この看板に見合うようなオトコになるという目標もある。まだまだ先の話です。

炭の原木はほぼ、北三河の樫。1kgあたり、500円。木酢液は1Lあたり、1000円です。

製材した材木は、製品立米単価で15万円(4寸角3m 芯持ち柱材で一本6500円)です。ホームセンターで売ってるKD(人工乾燥材)に比べてかなり高いけど、僕が出す材木や炭は、全て自分で伐採している木なので、その伐り株まで案内できる。これは、究極のトレーサビリティだと自負しています。

チームで仕事をするのは好きだけど、組織が嫌い。

山仕事の相棒も、個人事業主。仕事がある時に協力してもらう間柄。

人が大勢集まる場所が苦手。一日、誰とも会わないで済んだ日はご機嫌。

「世のため・人のため」が優先ではなく、今自分がどうしたいのか?何をやりたいのか?が最優先。

自分がやりたい事をやり、結果的に誰かの為になるのなら、それが幸せ。

頑固だが、楽天的なジジイを目指し、「誰とも戦わないけれど、誰にも負けない」と思ってる。

「稼ぎ=ライスワーク」と「仕事=ライフワーク」を両立させることが日々の目標。

川は海を目指す

僕が木こり、炭やき、木挽きになろうとしたのは、真面目に水源地の山河を守りたいからだ。

山が命の水を産み出す場所だから、全ての源だと思うから、僕はそこを仕事場にしたかったんだ。

大いなる海の水は蒸発し、風に乗って運ばれ、山肌の上昇気流で雲になり、山に降り注ぐ。その水は、天然林ならたっぷりの腐葉土に染み込み、何年も何十年もかけて、沢に集まり、川となって海を目指す。その動きは、重力によって引き寄せられる、1Gのチカラで地球の中心に向かって、高いところから低い場所へ向かって引っ張られる事。母なる地球の真理である。

決して抗うことのできない、大きな力(重力)に身を委ねるということ。その中で、自分ができることをすれば良いのだ。

その輪廻のような繰り返しが、森羅万象の命を繋ぐ、それは命の水だ。

地球上の水の絶対値は変わらない。それこそ、宇宙の真理なんだ。

僕がそんな事を考えるようになったのは、師匠の教えもあったけど、20代で読んだ北山耕平さんのネイティブ・アメリカンについての書籍の影響がとても大きい。

ルーツを辿れば、僕らと彼らは同じだと聞いたこともある。環太平洋理論では、同じ血が流れている人たち。だからなのか、今最も大切にしなきゃいけない事が書かれていると思った。

それと、流域思想、山仕事、炭やき、木挽きがシンクロして、混ざり合って、今の僕が成立っている。

「仕事=ライフワーク」と「稼ぎ=ライスワーク」の狭間でもがき、何とか日々生きているのが現実。

「スマートでカッコイイ」の対極にある、「ドン臭くてカッコワルイ」姿です。

でも、それは嫌じゃない。

小汚くて小太りの還暦過ぎのおっちゃんだけどむしろ、誰にも真似できないことをしている(誰も真似したくないかもしれんけど)という自信も自覚もある。

少なくとも、この丈夫だけが取り柄の身体が動くうちは、黙々と働こうと思うのです。

お盆の時期、いつもとは違う雰囲気(里帰りしてきた子供たちの声とか、普段見ない車が停まっていたりとか)だ。

落ち武者たちが開いたと言われるこの部落には、先祖たちの魂が舞い戻って来ているかもしれない。

暑さで僕たちの思考が動かない日中でも、確実に植物たちは細胞分裂を繰り返して、大きくなってゆく。毎日見に行く田んぼの稲は、毎日少しずつ成長しているのがわかるんだ。

工場には樹齢200年超えのスギの原木がある。この目(年輪)一本一本がこのスギが生きてきた歴史。芯に近い部分は江戸時代に生きていた部分だ。

200年も同じ場所に居続けて生きてきた木。絶えず動きながら、絶えず形を変えながらこの星そのものである山河。

その両方を相手に食わせてもらっているちっぽけな自分。

それを考えつつ、宇宙に想いを馳せる日々。

地域面談

この1~2週間、人当たりでぐったりしている。好き嫌いをハッキリさせるのが僕のやり方だけど、「嫌い」をされた相手は傷つく。それはわかっているんだけど、嫌いな相手に対して、ニコニコしながら、腹の底では中指立てて舌を出すような器用な振る舞いができない。還暦を過ぎて、好きな人とだけ付き合いたい。ある人からは、「だから信頼できるんですよ」と言われた。確かにそうかもしれない。

ただ、最低限の礼儀は通しているつもり。

「不愛想だが、礼儀正しく」「相応しい事を喋る。相応しい事を喋れない時は、黙る」。と心がけてる。

日曜日には地域面談があって、一組だけを選ぶ(または一組も選ばない)選択をする。好んで誰かを裁いている訳ではない。地域にとって、プラスになるか、マイナスになるか。本当に僭越ながら、自分を奮い立たせて選ぶ。これが、想像以上にキツい。もっと簡単に選んでしまえばいいんだけど、応募してきた人の人生、地域の人たちの生活に多大な影響を及ぼすとわかっている以上、真剣に対峙してしまう。

応募者のプロフィールや、考え方、信念みたいなものまで聞き出して、それが地域にどれだけ合致し、地域の人たちの未来と融合してゆくか?移住してきた人たちが、10年後に地域にはなくてはならない人材になっているか?を想像しながら進めるんだ。応募者と地域(隣近所のお年寄り)の両方が幸せになるような選択をする責任がある。

面談の後、自分なりの結論を出さなければいけない。面談者全員の意見(選択)を聞いた上で、家主が責任を持って判断する。この時、面談者たちの思惑、家主の気持ちなどが交錯する。そこで面談OKになると、応募者は家主と交渉ができるようになる。移住を受け入れると判断された瞬間だ。それが決まった以上、定住促進部としては、全力でバックアップして、受け入れる事になる。これがやりすぎだとか、地域側にばかり有利だという意見もある。応募してきたけど、この地域面談で裁かれるのは不本意だと、自分の権利を主張して辞退する人も多い。それはそれでいい。それこそ、地域面談をする意味があるという事。

意識的に地域側へ傾けた受け入れガイドライン(僕が部長をしている間は、これで行く)である事、移住者が地域に寄りそう形を要求する事、契約上は対等なんだけれど、家主(地域)を守る方向に向いている事、それらをむしろ喜んで受け入れてくれる人に移住してもらいたい。地域との深い関わりを拒絶する人には来て欲しくない。派手な活躍よりも、愚直で穏やかな暮らし方をしてくれる人に来てもらいたい。それを判断するのも、地域面談だ。少子高齢化に伴う人口減少を食い止めるための定住促進。だけど、誰でもウェルカムではない。興味本位で押し寄せる都会の人々と対峙しつつ、物言わぬ地域の年寄たちの気持ちを最優先にしつつ、人口を増やし、夜に明かりが灯る家を増やす。相反するようなこのやり方だけど、ここだけは安易に譲れない。敷島自治区(900人規模)も、旧旭町(2200人規模)も、移住者である僕をこの立場に選んだ事には意味があると思っている。

面談での僕の立場は、旭地区定住委員会委員長であり、敷島自治区定住促進部部長であり、移住者の先輩でもあり、地域で一次産業を営む小汚い、個人事業主木こりのおっさんでもある。

面談では、家主、自治区区長(今回は同じ町内だったので出席された)、町内会長。その次の立場だ。僕の意見は重視されているのが実感できる。自分が言った言葉の重みや、責任は十分に承知しているつもりだ。

それによって報酬もないし、自分の隣近所の話でもない(今回は隣の町内の面談)。それほど気合い入れなくてもいいよと言われるけど、気合いというより、「仕事=ライフワーク」と捉えている以上、つい頑張ってしまう。ある人から見ると、それがやりすぎだったり、出しゃばっているように見える。直接言ってくれればいくらでも対応するのに、陰で言われる。

まあ、陰口にいちいちネガティブ反応するほど子供ではないから、全ての因果応報は自分発であると理解し、全ては自分の撒いた種から起こる事なので、全ては自分の責任だと思う。

自分の身に起こる事は、良い事も悪い事も、神様と約束された事。

それでもやっぱり、人との関係性は疲れる。

しばらくの間、誰とも会わず、黙々と自分の仕事をするようなパターンが続いていたのに、急に人との関わりの中で動く毎日(地域面談だけじゃなくて、良い事もムカつく事もいろいろあった)になっていた。

今日は本当に久しぶりに何も約束の無い一日となった。これから先もしばらくはあまり人と会わずに済みそうだ。

戯言

今日も暑かった。

夜8時半頃、北西から南東に向けて、ISS「きぼう」が星空の中移動していった。見え始めたあたりはまだ中国大陸の上空。ほぼ真上に見えている時は日光の上空あたり。光が薄くなって見えなくなる直前は、千葉の上空だった事が驚きだ。地球のスケールを感じた。

この時間、山村はすっかり涼しい空気に包まれる。

前の広葉樹林からはフクロウの声がして、田んぼから聞こえるカエルの声は随分と少なくなってきた。

夏至を過ぎ、一日の日射量は確実に減り、ちょうど今頃はこの大きな地球が、蓄熱から放熱へと切り替わるタイミングだから(地球のサイズだと、日射で蓄熱したあと、日射量は減るのに、放熱まで一か月以上のタイムラグが生じる。反対に、冬至から一か月以上して最も寒くなるのも、日射量は増えても、地球が大きすぎて、放熱から蓄熱までに一か月以上のタイムラグがあるから)7月下旬が一年で最も暑い時期になる。お盆の頃になると、更に日射量は減り(日が短くなり)、地球自体も冷め始める。都会では実感できないかもしれないけれど、山に近い場所では確実に、少し涼しい方向に向いてる。

更にそれを感じさせてくれるのが、星たちだ。

この時期のこの時間(7月下旬の0時近く)になると、東の稜線にカシオペアが昇ってくる。アンドロメダも見える。すぐに、秋の四辺形が昇ってくる。

今夜は雲も無く、昨日が新月だったから、すごく星がキレイだ。夏の天の川がちょうど真上を横切っていて、双眼鏡で眺めてみると、思わず「わぁ」と声が出るくらい素敵だ。

僕たちがぼーっとしている間に、地球は公転で位置を変え、秋に近づいているんだなあ。

ちょうど今頃、木々たちは春目(年輪と年輪の間の色が薄い部分)を作っている。日差しも強く、日照時間が長いという事は、光合成が活発だから木々は横方向へ成長する。そのピークが夏至のあたり。盆を過ぎると、秋目(いわゆる年輪)を作り始める。それは、日差しが弱くなり、日照時間が減るので、光合成が緩やかになる事で、横方向の成長が遅くなる。簡単に言うと、秋分から春分までが秋目(年輪)、春分から秋分までが春目を作る時期。この秋目を作っている時期は、光合成が緩やかなので、根から水を吸い上げる量が減る(光合成とは、吸い上げた水分と、大気中のCO2を反応させて、CとO2を作ることだから)。つまり、木々が含む水分量が少ない時期。伐採・製材後には材木を乾燥させる事がマスト条件になるから、元々水分の少ない時期に木を伐る(これが伐り旬)。含水率が小さいという事は、木の重量も少なく、その分安全で搬出もしやすい。だから僕は、伐り旬の新月前の一週間で木を伐り、更に葉枯らしさせるんだ。

ちなみに、木の太さを決める要因が光合成量、高さを決める要因が地位(生えている場所の水分や養分)だ。

この秋目は固く、僕たち木挽き職人にとっては、木取りの目安になる。目を切らないように丁寧に挽くのが木挽きの美学なんだ。

木材(特に日本の人工林材)は、春目と秋目がハッキリしていて、例えるならば、秋目が鉄筋で、春目がモルタルとなる。だから目が詰んでいる材は強いし、変形しにくい。当然、高い値で買ってもらえる。それを構造材に使えば、強い架装になる。目が詰んでいる材を造るために、加子母あたりのヒノキは北斜面に植えられている。ゆっくりと育てるためだ。

その秋目を木材の端から端まで平行に通して挽くのが「目切れ無し」製材だ。板、芯去り材を挽く時には、これを徹底するように木挽きの師匠からは叩き込まれた。

余談だけど、四角く製材した木材よりも、丸太の方が強い。目を切っていないからだ。例えば、直径10cmの丸太と、一辺が10cm角の柱材では、10cm角の柱材の方が体積は大きいけど、ほとんど強度に差が無い。丸太の中は、円錐形の秋目(鉄筋)が切れ目なく繋がっているからだ。

それにもしも、10cm丸太の方が目が詰んでいて、年輪の数が多いならば、むしろ丸太の方が強い。

木材の強さは、年輪の数で大きく変わる。だから机上では(木の樹種とサイズだけを考慮しても)正確に算出できないのだ。四角く挽くのは、大工さんが正確に組み上げる事ができるのと、挽いてある木の方が上品だから。

しかも、よく言われるのは、スギは柔らかく、ヒノキは固いから、ヒノキの方が強いと。

それも一概には言えない。縦の圧縮方向に関して、目の詰んだスギは、単位重量当たりの強度は鉄に匹敵する。そして、柔らかいスギを構造材に使えば、極限ではしなる事で地震などの入力を逃がす。RCなどで強固に作られた家は、ある程度の震度までは耐えるが、その先は破壊・崩壊する。柔らかいスギと、固いヒノキを木組みで造った家は、傾いても、崩壊しない。

それが、木造住宅の良さ。構造を木で作り、壁を土(ミネラル)で作った家は、木の蓄熱・放熱特性と、土の蓄熱・放熱特性が違う事から、ゆっくりと冷めてゆく。これが日本ではちょうどいい住宅性能になる。

そう。母なる地球の恵み(木と土)が、命の箱を形成するんだ。

僕の仕事は、木を伐り、出し、挽く。大好きな仕事。

それを成り立たせているのが、「火=太陽光」「風=地球の大気」「土=地球そのもの」「水」。

無限に拡がる大宇宙と自分と地球。父なる太陽と、山の木々たちと、水と、全ては調和しながら、影響を与え合って、シンクロしながら混ざりあう。まさしく、ガイア理論。

もう、神秘的としか言いようがない。

吠えます

食品ロスを減らす。地球に優しい取り組み・・・
規格外品をスーパーよりも安く販売するという宣伝。
形や大きさが不揃いで、規格外となり、廃棄される運命だった野菜たちを救います。味は変わりません!
生産者(農家)・消費者・地球にとって良い事をしてますっ!
って・・・
物凄い嫌悪感。その農家さんからは安く(下手すればただで)仕入れてるんですよね?規格品じゃないから?廃棄されるくらいなら、安いけど買ってやる?
品質には問題ないのなら、規格品と同等の値段で買い取って、規格品と同じ価格で売ればいい。形が揃っていないので、流通コストが上がるんなら、それも価格に乗せるか、社会貢献を謳う企業が払えばいい。
規格外品が一つ、安く買い叩かれれて市場へ回れば、本来売れるはずだった野菜が買われない。その農家さんで規格品が一つ売れ残るのと同じ。
地球にやさしい事業を謳うなら、社会貢献がコンセプトなら、農家さんへは通常価格で払う事が本来ではないのか?野菜なら、鮮度と味で値が決まるはずだ。
心ある消費者なら、品質が同じならば、規格外品でも普通に買うよ。
売り手の理念が、安く売る(買う)事が正義だと、一次産業者は疲弊するだけ。
本来の価格は、一次産業者が利益を乗せた価格で売り、それを足し算で市場へ出す事が筋。
市場の相場から引き算で降りてくる価格では、一次産業者は赤字になる。消費者は高くなるけど、それが正常な価格だと思う。
農家を守るのなら、正当な対価(規格外品でも、作る手間、経費は変わらない)で買えよ。本当に美味しい野菜だと思うなら、企業努力で規格外品を高く販売できるような仕事をして欲しい。
いかにも「いい事してますっ!」ってアピールが気持ち悪い。
一次産業が廃れたら、この国は亡びる。
これ、木材でも同じ。
目が通っていて、大工さんが仕事するのに支障の無い状態ならば、山側で利益の出る(と言っても、収入としては大卒初任給以下だけど)値段を決めて、それを施主が普通に負担するような仕組み。
これは、国がテコ入れしないと無理だと思う。僕たち山側の現場は、いい製品を作る事に集中したい。
世の中「安い」が正義って、やはりおかしい。「正当な対価」というものがあるはず。
でもね、自分の財布からお金を出す時は、安い方がいいんだよね。矛盾してるなあって思うけど・・・
木材市場ならば、市場で売れた時点で一次出荷者(山主)にプラスになるような補助を林野庁が出して、買い方(市場)から先は、今と同じ買値(もちろん、木の状態でランクも値も変わる)。そこから利益を乗せてゆけばいいのに。そうすれば、消費者へ渡る値段も今と変わらない。一次産業者にはプラスの利益が入ると思うんだけどなあ。

ガイア理論

先日書いた事の補足。

地球を生き物に例えるのはおかしいと書いた。しかし僕は地球を母だと言う。

矛盾しているかもしれないけど、どちらも僕の中では正解なんだ。

もう少しちゃんと説明しようと思う。

地球が怒っているとか、泣いているとか、笑顔が見たいなどという、薄っぺらい環境活動家たちの言葉や、上っ面のSDGsや脱炭素なんかには興味が無い。

ラブロックの「ガイア理論」という壮大な、しかし科学的、生物学的に高いレベルでまとまった理論がある。

ガイア理論を語ると長くなってしまうけれど、僕が知る限りの内容は、地球全体が一つの生命体であるという考え。

大気の状態が30億年も変わらないのは、地球表面と地中にいる生き物たちの営みだけでは説明がつかない。地球そのものが、大気成分を一定に保つよう、補正しているという理論。

「火」「風」「土」「水」の4神のうち「風=大気」だ。

思考を持った生き物では無く、そう、植物たちのように、細胞の奥深い所で「生きる事が仕事」と動き続けるようなものかな。「土=母なる地球」「火=父なる太陽」。この星の環境を今の状態に保っているのは、神の仕業だと、いにしえの先人たちは信じていた。

思考は持っていないけど、ダイナミックに動き続け、人類が現れる遥か前から営みを続けている。

それがラブロックの唱える「ガイア理論」だと理解している。

管理者は存在していない。それぞれ(地球を含めて、地球上で存在している生き物全て)が関係しあい、影響を与えあって、混ざりあって、この星を形成している。

ラブロックは言う。「人類が地球を救うなんて、到底無理な話。地球の30億年以上の営みを、人間が管理できるなんて考えは滑稽である」と。

この言葉に深くシンクロした。

地球の全ての存在が関わり合って、地球の自己調節機能という一つの目標に協力しあう姿。

つまり、人間がコントロールできるようなものではなく、環境全てでこの星を労わってゆく事。

事象としては、科学的、物理的に説明がつく。決して、スピリチュアルな話ではないけれど、これを自らの魂に落とし込むには、生き物として謙虚な立ち位置と、豊かな感性が必要だ。

産業革命以降、本来なら地中に埋まっているままのはずだった化石燃料を使いすぎている事実を受け止め、減らしてゆく努力も必要だと思う。これは個人レベルで、電気やエネルギーの無駄使いを少なくする事だ。

地球温暖化は、データが示しているから事実だ。だけど、それが人間の営みが原因だとは、どうしても思えない。温暖化に貢献しているような、エネルギーの無駄使いはあるだろうけれど、このわずかな気温の変化は、地球の小さなうねりみたいなものだと思うんだ。

今宵の月を眺めていたらふと、宇宙から見た地球を想像していた。大宇宙にぽっかりと浮かんで、堂々と回転している母なる地球。

そんな時はいつも、ガイア理論を思い浮かべる。

こんな戯言を考えながら、木こり仕事をしています。

とりとめの無い話ですみません。

偏屈者の戯言

たまたま見ていたフェイスブックで、素人がいかにもいい事をしている顔で「日本の山を造り、手入れする」だと。山を造るなんて、人間の能力ではできないです。せめて、植えてしまった木を伐ったり、天然の木を少し頂いたりすることくらい。災害が起こると、上流の山を守りましょうと、一時の流行みたいな声が上がる。それを自分の使命のような悲壮な顔つきで語る人が出てくる。実は、20年前の僕がそうだった。頭でっかちで、能書きばかり。能力の伴っていない理想論ばかり。

今は、自分の能力をわかっているつもりだし、発する言葉も減った。その分、黙って仕事を進めているつもりだ。

そして、たまにこうやって、恥を忍んで発信している。

僕の中で「山守・水守」でありたい気持は日々強く、大きくなっている。山の懐で生き、木を伐り、挽き、山を知るほど、それ(机上の理想論)がどれだけ自惚れた考えかを思い知る。

水源地に自分の山を持ったことで、現実が重くのしかかる。そんな簡単なことではないんだ。

人工林の間伐が遅れているのは事実だけど、それが災害の原因では無いよ。小さな一因ではあるけど。

人間ごときの仕業で、大自然が変化するなんてほとんど無いと思う。何故なら、人間はこの地球の生態系からは外れている。何も生産できず、消費することしかできない。

異論も反論もあるでしょうけど、実際に山で暮らし、山の恵みで生かされている僕の声です。山には勝てない。

時々起こる災害も、こうやって何億年もリセットし続けてきた。

地球が怒っているとか、大地が泣いているとか、スマホの画面を見てるだけで、現場に立たない人が言っても、何の説得力も無い。山は本当に怖いです。

僕がこんなに山を愛し、大切に思っていても、山や木々は僕のことなど関係ない。大地の力である重力と、太陽エネルギーと、空気と、水。たったそれだけのことしか関係しない。

大自然は冷たいものです。あっけなく、そこにいる動物の命を奪う。そこにあるのは、その真実だけなんだ。それが自然の真理。

夕べ、遥かなる大宇宙を見ながら、自分のちっぽけさを痛いほど感じたんだ。

「地球の笑顔が見たい」って、反吐が出るような言葉。地球は笑ったりしねえよ。単に、物理的、科学的事象の連続しかない。

そんなことを思いつつ、山の神には自分と自分の周りの人たちの幸せを祈願する。報道で知る、亡くなられた方たちは気の毒だけれど、その人たちを僕が救える訳がない。僕にできるのは、自分がやりたいことを、自分の限界までやり続けるだけだ。人知れず小さなことを積み重ねるだけ。

雨と風が止み、日が差す。太陽は、地球上のことなど関係なく、ただそこで燃えているだけ。

その事実を深く腹に落としつつ、やはり母なる大地と父なる太陽だと思う。ネイティブアメリカンの考えに深く共振共鳴する。

名も無き山の頂にはそれぞれ神が棲む。一つの森は、それ自体が生命体みたいだと思う。

矛盾しているようだけど、その二つの考えが妙に、バランスよく頭の中を占領している。

災害が起こるたびに、こんなことを考えてしまう偏屈者です。

夏至の日に

今日は夏至。この日だけは早起きして、裏山の稜線から日が昇る瞬間を見る。

お宮さんにお参りして、夜明けを味わう。

いろんな鳥が鳴いてて、すごく豊かな時間。

僕が住む集落には、江戸時代から続く習慣があって、夏至の日は「中祓い(ちゅうばらい)」。

6月30日(一年の折り返し)には「大祓い(おおばらい)」がある。

「中祓い」は、農作物を育ててくれる源である、太陽に感謝する日。

「大祓い」は、田植えも終わり、稲も順調に育っていて、一年を半分無事に過ごした事への感謝と、これからの半年を無事に過ごせるよう祈る。

集落では、「大祓い」だけ行う事にして、来週の土曜日夜、持ち寄りでお宮さんで集まる事になっている。

山暮らしをして、一次産業に従事するようになって益々、「父なる太陽」に対する感謝は深まる。「母なる地球」に対する愛おしさは大きくなる。

なので、今日は ”一人中祓い” 。

午前中はユニックで工場に行き、一仕事。その後、現場下見を2箇所。帰ってから少し草刈り。

午後は夏至の太陽の光を浴びながら、休んだ。リクライニングチェアを出して、上半身裸で日光浴(僕の場合は光合成)。夜明けからずっと一日太陽を追いかける。途中、2回木酢液たっぷりの風呂に入って、また日光浴。夕方になって、メシ食って、日が沈む頃に2度目のお宮さん。毎年、このタイミングでお宮さんに来てる。当たり前なんだけど、同じ場所に座れば、全く同じ場所(剛二さんのヒノキ山)に沈む。去年も一昨年も同じアングルで撮った写真は、狛犬越しの夏至の太陽。

木々の間の光がゆっくりと降りてゆく。素敵だ。

思わず、太陽に感謝の一礼をした。

一次産業に関わる者として、全ての起源が「父なる太陽」だから。感謝せずにいられない。

いつも考えているんだけど、「日が昇る・沈む」って、実は太陽は動いていなくて、この地球が回転しているからそう見える。

太陽や月が沈んでゆくように見えるあのゆっくりと、しかし何よりも確かなスピードは、この母なる地球が46億年変わらず、24時間で一回ずつ回転しているそのスピードなんだ。

堂々と回転しているこの母なる大地の存在は、考えれば考えるほど、神秘的だ。

僕たちは、太陽系第三惑星の表面に、重力で引っ張られてちょこんとくっついているだけ。ホントに儚く、ちっぽけな存在。

4節気 夏至・秋分・冬至・春分 は特別な日。

秋分は本業である木こり仕事が始まる日。春分は終わる日(秋分から春分までが伐り旬)そして、その半年に6~7回訪れる新月期(下弦~新月までの一週間)で実際に木を伐る。太陽と地球の位置関係、月と地球の位置関係は、僕にとってカレンダーよりも、時計よりも大事な宇宙のリズム。

だからこそ、僕は地に足を付け、自分勝手に生きてゆこうと思うのです。