炭窯造り クラウドファンディングスタート

クラウドファンディングスタートしました。下記URLを開いてみて下さい。どうぞ、ご支援よろしくお願いいたします。また、直接僕に渡していただく方法もあります。

https://camp-fire.jp/projects/view/390072?fbclid=IwAR1vVGRPe_7-4ylm2Jhu2NVWj5dIut3jGfi2DYe0RuNzC8ZmVWaRftsoza4

共感した言葉

小泉進次郎。今までどこか的外れな事言ってるボンボンだと思っていたけど、中々骨のある人物だと思った。以下、ネットにあった彼のコメントだ。

皆さんは将来に悲観的な1億2千万人の国と、未来に楽観的で自信を持つ6千万人の国だったら、どちらの方が未来があると思いますか。極端な例かもしれませんが、私は悲観的な1億2千万人の国より楽観と自信を持った6千万人の国の方がよっぽど強いと思う。
最大の日本の課題は、人口減少と少子化にある。その打開策は、毎年減り続けることを悔やむ発想から早く飛び出して、減る中でもやっていけるという成功例を生み、人口減少でも大丈夫だという楽観と自信を生むこと。それが結果として将来、人口が下げ止まる環境を作り、新たな日本の発展への道を描く。私はそういう考えでいます。

ツイッターなんかでは、気が狂ったか?などと言われているけど、進次郎氏が言いたいことは「毎年減り続けることを悔やむ発想から早く飛び出して、減る中でもやっていけるという成功例を生み、人口減少でも大丈夫だという楽観と自信を生むこと」という部分であって、人類を半分に減らしたいという意味ではない。
人間が生態系ピラミッドの頂点にいるのだという、愚かな考え方の人たちは、人間の数を減らすなんてけしからんと言うんだろうけど、人間なんて、生態系ピラミッドからは弾かれた存在であって、地球上で最も愚かな種(もちろん自分を含めて)だと思う。
人間は、消費することしか知らない。自然から搾取することしかできない。生態系ピラミッドから弾かれているというのは、人間だけは食物連鎖から外れている。火葬してしまうことで、自らの肉体を次の生態系に捧げていない。だから、生態系ピラミッドには入れない存在。
山に居ると、特に天然林では、何もかもが連鎖して、輪廻している。落ち葉でさえ、動物の死骸でさえ、全てが必要とされ、最期は微生物がキレイに片づけてくれる。全てが永和に調和している。そしてそこにいる自分だけが、浮いている存在だと思い知らされる。
それを僕に教えてくれたのは、師匠の家の近くの原生林だった。それまでSEとして、社会の役に立っていると自惚れていた自分の頭を思い切り殴られたくらいの衝撃だったんだ。
大都会の流域上流側の中山間地で、一次産業に携わり、地域の定住促進を役目としていると、この山村の人口減少、少子化問題に直面する。だからこそ、進次郎氏の言葉には共感するのだ。

ふと、思うこと

ふと思うこと・・・

ネ イティブの言葉を紐解いていくと、生きとし生けるもの全ては対等であり、全ての生き物は地球からの恩恵で生かされているとある。僕も心からそう思う。人間 だけがこの星の住人ではない。むしろ、人間以外の生き物の方が多いのだ。そもそも、人間は食物連鎖に組み込まれていない。人間は消費するだけだ。生産して いるように見えても、それは地球の恵みを頂いているに過ぎない。ひたすら、他の種を漁り、無駄な殺戮を繰り返し、地球を痛めつけ、自分たちだけが快楽に酔 いしれている。快楽のために他の命を奪うのは、人間だけだとされる。

46 憶年の間、地球という惑星が育んできた資源を、あっと言う間に使い果たしてしまった。自らの身体を他の生物に捧げない動物は人間だけだ。生態系ピラミッド からも外れている。人間の自惚れが、自分本来の居場所すら奪ってしまったことを考え直すべきだ。人間が動物だった頃、地球は穏やかでとても豊かだったはずだ。

人工林問題。 これは国としての大失敗だ。大造林政策と呼ばれる昭和の大失態。しかし、実際に山に木を植えたのは、里山に暮らす平凡な山の衆であった。孫に少しでも財産を残そうと、歩いて何日もかかる山奥にまで植林したのだ。そんな祖先の偉業を悪く言えない。

植林するときは、間引きを前提として多く植える。その間引きをしてこなかった世代の責任なのだ。高度成長と呼ばれる幻を必死で追いかけるうちに、一時の快楽に惑わされているうちに、見向きもされない山の木は物も言わずにひしめき合った状態で成長を続けた。

毎年患者が増えている花粉症は、人間が作り出した悪魔だと思う。末期的な状況が近づいている人工林では、木々がその危機感から子孫を多く残そうと、異常な量 の花粉を作り出す。天然林であれば必要の無い数の花粉が宙を舞う。人間の愚行は、自分たちの健康被害にまで及んでしまっている。

結局、自分の首を自分で締めるような行いをしている人間たちだけれど、僕はまだ間に合うと思う。いまから始めれば、きっと間に合う。「地球は子孫から借りた もの」という言葉を信じ、自分たちにできる小さな事から始めて、微々たる力を結集していけば、何世代か後の子孫たちは救われると思う。CO2の問題もそう だ。排出量を減少に転じる事ができれば、30~40年でかなりの部分は元に戻るそうだ。

僕は毎日山で暮らしている。都会からやってきたIターン者だ。だからこそ、より敏感にわかる。「自然の中の不自然」

人工林の中に入った時の不気味さがそれだ。コンクリートで囲まれた都会では感じられないくらいの薄気味悪い変化を感じる。人間の驕りが骨身に沁みてくる。植えてしまった木は大切にしなければ。一旦手を入れた森は、責任を持って手を入れ続けなければ。それが難しいのなら、間伐して、木を半分に減らすことから始める。

林内を片付けたら、後は母なる地球に任せよう。広葉樹を植えたりしてはいけない。どこに、どんな植物が生えるのか?それは神の仕事だ。埋土種子と土着菌が太陽の光で活発に動く。そんなきっかけを与えたら、後は大人しく待つのだ。30年も待てば充分だろう。逆に、それが待てないのなら、森林環境の事を口にする のを止めるべきだ。森の時間は、僕たち人間の時計で計れるような時間ではない。森の時計は優しく、ゆっくりと進む。

自然とは、地球を含む宇宙そのものだ。母なる大地、父なる宇宙(そら)、滔々と流れを止めない子孫たる水。

そろそろ考え直さないと本当に取り返しがつかないところまで行ってしまう。

僕たちにできる事は小さな事だ。今更便利な生活を捨てる事はできない。現実的に、クルマや携帯電話、パソコンが無い生活は送れない。だが、昔の里山に暮らし た人々の知恵をもう一度学び、化石燃料に依存したエネルギー消費を少しづつ減らす努力は必要だと思う。山の恵みに感謝しつつ、エネルギーを使わ せてもらう。

近いうちに必ずやってくる、人口減少を発端とする右肩下がりの世の中。消費するためだけに生産するような愚かさから目覚めて、昔ながらの穏やかな生活に戻る こと。結局、それが一番上品でカッコイイ生き方なのだ。本当に豊かな暮らしとは、昔ながらの里山暮らしであると、僕は確信を持っている。

どんな種であろうと、自然をコントロールできる訳が無い。それなら、人間も動物の一種に過ぎないと、地球の恵みに感謝しつつ、質素に暮らす事が、何よりも大切な子孫の為に僕たちができる事なのではないだろうか。その暮らしの中で重要なのが「火」だ。薪や炭といった、「火の文化」を復活させることである。

「CO2固定」という、地球のための炭(燃やさない炭)と、「火の文化」をもう一度見直し、暖かくて癒される薪炭を復活させて暮らしを豊かにする炭(燃やす炭)の両方を、この地球の為に作り続けることが僕の生涯を賭けた仕事なんだ。

僕たちの存在は、それ以上でも、それ以下でもない。本来の姿で子孫に地球を返す事が、僕たちの目標であり、幸せであると思う。

それを目指し、ひたすらに黙って炭をやき、山を守り、水を守る。

名も無き緑の防人になる事。それが僕の望みだ。

月がキレイな空を眺めながら想う。



ネイティブアメリカンの教え

ネイティブアメリカンの教え。遥か昔、気が遠くなるほど離れているけれど、ネイティブアメリカンと僕たちは先祖を同じくしている説がある。環太平洋理論。

難しいことはよくわからないけど、確かに顔も似ている。インディアンと呼ばれたのも、アメリカ人がはじめて彼らを見た時に、インド人みたいに見えたからだとか。

僕はずっと前から(多分学生の頃から)、ネイティブアメリカンの思想、信念をリスペクトしていて、北山耕平さんの本もかなり読んだ。今とこれからの日本人にこそ、大切な考え方をずっと前から説いてくれている。


コロナに振り回される毎日だけど、やっぱりココロの真ん中には、母なる地球が据わっているんだなあ。これもネイティブアメリカンの教えです。


「岩は偶然ここにあるのではない。木は偶然ここに立っているのではない。そのすべてを造った者がいる。私たちにあらゆることを教えてくれる者が。」




この星に、外から入ってくるのは太陽エネルギーだけ。それ以外のものは、全てこの星の上で輪廻しているだけ。そして、太陽エネルギーを直接採り入れられない動物たちは、光合成をする植物を摂ることで、父なる太陽の恵みを直接カラダに取り込める。
その植物たちと、植物たちを育む微生物たちを創ったのは、母なる地球なんだなあと、しみじみ想う。

僕は無宗教だし、スピリチュアル系も苦手だけど、母なる地球という考え方は深く納得できる。山村の春の日差しの中で、ふと、そんなことを考える。

家宝

ツイッターでとても興味深い言葉を見た。ジブリの鈴木敏夫さんの言葉だ。

「テクノロジーの発達にともない、それに合わせて、みんなが「進化」を強いられて苦しい思いをしている」


うーん、と唸ってしまった。元列車運行管理システムSEとして、テクノロジーの最先端の少し手前で頑張っていた身として、確かに「進化」を強いられていた。日々、新しい技術を学び、それを使うことで、速く、大量のデータを処理できるようなシステムこそがいいと信じていた。
そんな毎日に誇りを持っていたけど、ココロの真ん中にある山への想い、「頑固で楽天的なジジイになる」という自分の未来を考えると、やや突発的に(自分の中ではロジックがちゃんとあったけど)木こりになって、炭をやく日々の中で、僕は今の仕事こそが「最先端・最前線」だと確信して、その頃(15年くらいまえかな)はそんな事を偉そうに人に語って歩いていた。
今では、自分のしていることに自信が出てきたので、黙って市井の職人として、山に向き合う日々を送りたいと考えている(フェイスブック、ホームページのブログだけ発信しています)。
鈴木さんの言葉は、僕の心臓を掴み、僕が正しいと思う道に導いてくれる。何てありがたい。

スマホやコンピュータ無しでは暮らしが成り立たなくなっていて、車が無ければ仕事にも行けない。周りにはいくらでも耕作地があるのに、時間が足りないという後ろ向きな理由で、スーパーで食材を買う。
偉そうなことを言っても、理想とは程遠い生き方になっているんだけれど、鈴木さんの言葉でふと、我に返る。
「ああ、そうか、俺は俺で、これでいいんだ」と。


実は2015年の春、大工の中村さんが鈴木さんを連れて、僕のフィールドに来てくれて、鈴木さんに紹介してもらった。その時たっぷりと鈴木さんと話をして思った。こんなに大きな器の人って、会ったことない。気さくに話をしてくれたんだけど、真っ直ぐにこちらを見る眼は、正直怖かった。全てを見透かされてしまう気がした。だけど、不思議とそのことに正面から向き合えた。すごく貴重な時間をもらえた。中村さんの人脈が無ければ、実現しなかった時間。その後のジブリ機関紙「熱風2015年11月号」にたっぷりと載せてもらえたことは、家宝になりました。全ては、中村さんのおかげでした。

その模様は、ジブリ汗まみれ、2015年8月17日のポッドキャストで聴けます。https://www.tfm.co.jp/asemamire/index.php?catid=173…tfm.co.jp鈴木敏夫のジブリ汗まみれ – TOKYO FM 80.0 – 鈴木敏夫

ライフワークとライスワーク

先日、素晴らしい言葉を見つけた。
「ライスワークとライフワーク」
内山節さんや、渋澤寿一さんが言う、「稼ぎと仕事」だ。

食うために稼ぎ、金にはならずとも、生きるために仕事をする。両方できて一人前。

ひっくるめて、「生きることが仕事」というスタンスでやりたい。「仕事のために生きる」はつまらない。増して、「食うために働く」のも面白くない。

毎日を生きるために、僅かな食料を作り、自分で採った薪で暖を取る。日々の仕事は、木を相手に。生き物としての尊厳を向けた相手と、真剣に対峙するんだ。

数十年山で生きてきた木の命をいただくのが僕のライスワークである。

命の水を生み出すその山を守るのが僕のライフワークだ。
山村の静かな時間はゆっくりと過ぎる。

言えることは、僕のライフワークをやり遂げるためには、この場所しかない。今、そんな場所に身を置ける僕は幸せ者だと、心から思う。

オリオン大星雲を眺めながら、そんなことを想ってみても、宇宙(そら)の星たちは数万年もの間、何ら変わることが無い。
考えても結論は出ないし、僕の頭では理解できない。

だから、これでいいのだ。

僕は、名も無き山守、炭やき、木挽きでいたい。

だから、ひたむきに山に入り、愚直な仕事を繰り返し、質素な生活を続けるんだ。

僕がやろうとしていることは、僕が新しく開発した技術でもなく、閃いたアイディアでもない。インターネットで仕入れた薄っぺらい、上っ面の知識でもない。師匠や先輩から直接伝え聞き、自分の五感で確かめたこと。僕がこの目で見て、この手で考えたこと。古来、日本人が培ってきた方法であり、技術であり、それはまさしく文化そのものなんだ。

山の恵みを頂き、それを大切に使う。ただ、それだけ。それ以上でも、それ以下でもない。僕は、誰とも闘わない。でも、誰にも負けない。母なる大地が僕を生かしてくれる。父なる宇宙(そら)が見守ってくれている。山の時間に逆らわないよう、丁寧に仕事をする。宇宙のサイクルにシンクロする。

僕が新月と葉枯らしに拘り、伐り出し、挽いた木々が、僕が魂込めてやいた炭が、誰かの小さな喜びになって・・・・・それが僕の糧になれば、それだけでいいんだ。

行き先は・・・

たてまえばかり気にする周りの有象無象が、下品な振る舞いをしていても、自分の仕事を黙々と続けようと思う。

お天道様は見ている。山の神はちゃんとわかっている。

僕の目指す場所は遠い。ずっと向こうにある。自由な旅人のようにそこを目指そうと思う。

僕を応援してくれる仲間たち。みんな近くには居ないが、勇気を与えてくれる。僕はまだ、志半ばの半人前なのだ。

少なくとも、月並みな目標からは足を洗った。オプティミストとして、一歩ずつ歩いてゆくんだ。

これから、まだいくつも波乱がありそうだ。それを考えるとワクワクしてくる。

やるべき事をやり終え、道を造ったら、身軽になって彷徨うんだ。

誰しも、神が与えた仕事を持っている。そこに気付き、そこに出向き、迷いながらでも、精進するかどうか?だと思う。

自惚れず、はしゃがず、独りで立つ。仲間は大切だけど、馴れ合うのはマイナスだと思う。自分を愛してくれる人を大切に、自分が愛する人を守りたい。

余計なものをそぎ落とし、多少の無理をして、いざというときには、全てのものを潔く諦めることだって有りえる。

それでも、理想を貫きたい。

地べたを這い回ってでも、愚直に前に進むしかないからね。

誰も見ていないと思っても、誰かはちゃんと見ていてくれるだろうし、お天道様はしっかりと見ているから。

男として自分に恥じる事の無い生き様を、自分自身に残したい。

雨の朝、やることはたくさんあるのに、できない苛立ちを抑えるのに、こんなことを書きました。

天気に左右される仕事だとわかっているのに、

結局天気に翻弄される。

まだまだです。

こんな日は、鉈研ぎます。

一番大切な思い

僕は以前から「流域思想」が大切だと思っている。
一本の川は、命を育み、モノを運び、あらゆるものを繋ぐ。流域は運命共同体である。上流で行われる行為が、下流に深刻な影響を及ぼす。特に、人と人のつながりが絡めばそれは顕著になる。
僕は名古屋生まれの名古屋育ちだ。木曽川の水で育った普通の都市住民だった。実家は庄内川のすぐ近く、濃尾平野で、ほぼゼロメートル地帯だ。
でも今の僕は、矢作川の上流に身を置き、山を何とかしたいという想いで毎日自分のできる範囲のことをしているつもりだ。何故矢作川なのか?その答えは明確に出ない。
大好きだったSEの仕事から離れ、山に生涯を捧げようと決めたのは18年前だ。誰にも相談せず、自分だけで決めた。たとえ誰かに相談していても、結果は同じだったはずだ。言葉は悪いが、山に関われて、自分自身の存在意義を自分の感性で確認できる場所なら木曽川でも、長良川でも良かった。それでも縁 あって矢作川に関わらせてもらっている。今ではすっかり、自分を矢作川流域人だと思っている。それは、この矢作川を取り巻く環境(山だったり、人だった り)が、僕にピッタリ合っているということ。
僕の原点である、段戸裏谷も矢作川源流のひとつだ。この18年で、大きく変わった部分、変わらなければならないのに、変われない部分、入れ替わり立ち替わりやってくる人々。都市から押し寄せてくる上っ面の「田舎志向」の人たちと、山村で地に足着けて朗らかに力強く生きている人たちの差は埋まらない。
僕は僕の立ち位置で、自分のできることを、自分のペースでやり続けるだけだ。誰かの評価など、我関せず。僕には、この背中で伝えなければならないことがある。それだけは自覚しているつもりだ。自分の立ち位置と居場所は自分の目で見つけて、そこに自信を持って堂々と根を張り、居続けるしかないんだ。
無愛想でも、礼儀は尽くす。どんな試練でも楽しんでしまえる器。そんな当たり前のオトコになりたいと、心から思う。

年明けて

明けましておめでとうございます。去年は激動の年でした。
今年は静かなスタート。実家で娘の笑顔を一年分見て、ジローの居ない正月休みを寂しく過ごし、コタツの住人からいつもの山の衆へ戻ってます。
やることが山のようにあるけど、一つずつ終わらせてゆこう。
正月休みの間に計算したお金のことは、愕然とする結果だったけど、命まで獲られることはないでしょう。

さあ、粛々と、愚直で、堂々と。還暦まで14カ月。
人生これから。ワクワクしかない状態。
体力は落ちてきてるけど、まだまだ動くこの丈夫な身体。一年、怪我の無いように気を付けます。