何気なく安部恭弘聴いてたら、「川は海を目指す」って歌詞に惹かれた。
僕が木こり、炭やき、木挽きになろうとしたのは、真面目に水源地の山河を守りたいからだ。
山が命の水を産み出す場所だから、全ての源だと思うから、僕はそこを仕事場にしたかったんだ。
大いなる海の水は蒸発し、風に乗って運ばれ、山肌の上昇気流で雲になり、山に降り注ぐ。その水は、天然林ならたっぷりの腐葉土に染み込み、何年も何十年もかけて、沢に集まり、川となって海を目指す。その動きは、重力によって引き寄せられる、1Gのチカラで地球の中心に向かって、高いところから低い場所へ向かって引っ張られる事。母なる地球の真理である。
決して抗うことのできない、大きな力に身を委ねるということ。その中で、自分ができることをすれば良いのだ。
その輪廻のような繰り返しが、森羅万象の命を繋ぐ、それは命の水だ。
地球上の水の絶対値は変わらない。それこそ、宇宙の真理なんだ。
僕がそんな事を考えるようになったのは、師匠の教えもあったけど、20代で読んだ北山耕平さんのネイティブ・アメリカンについての書籍の影響がとても大きい。
ルーツを辿れば、僕らと彼らは同じだと聞いたこともある。環太平洋理論では、同じ血が流れている人たち。だからなのか、今最も大切にしなきゃいけない事が書かれていると思った。
それと、流域思想、山仕事、炭やき、木挽きがシンクロして、混ざり合って、今の僕が成立っている。
「仕事=ライフワーク」と「稼ぎ=ライスワーク」の狭間でもがき、何とか日々生きているのが現実。
「スマートでカッコイイ」の対極にある、「ドン臭くてカッコワルイ」姿です。
でも、それは嫌じゃない。
小汚くて小太りの還暦過ぎのおっちゃんだけどむしろ、誰にも真似できないことをしている(誰も真似したくないかもしれんけど)という自信も自覚もある。
少なくとも、この丈夫だけが取り柄の身体が動くうちは、黙々と働こうと思うのです。
お盆の時期、いつもとは違う雰囲気(里帰りしてきた子供たちの声とか、普段見ない車が停まっていたりとか)だ。
落ち武者たちが開いたと言われるこの部落には、先祖たちの魂が舞い戻って来ているかもしれない。
暑さで僕たちの思考が動かない日中でも、確実に植物たちは細胞分裂を繰り返して、大きくなってゆく。毎日見に行く田んぼの稲は、毎日少しずつ成長しているのがわかるんだ。
工場には樹齢200年超えのスギの原木がある。この目(年輪)一本一本がこのスギが生きてきた歴史。芯に近い部分は江戸時代に生きていた部分だ。
200年も同じ場所に居続けて生きてきた木。絶えず動きながら、絶えず形を変えながらこの星そのものである山河。
その両方を相手に食わせてもらっているちっぽけな自分。
それを考えつつ、宇宙に想いを馳せる日々。今夜はペルセウス座流星群の極大日だ。夜中に外へ出てゆっくりと眺めてみようと思う。
