木に対する考察

人間は、山に対してもっと謙虚になる必要がある。木は移動して逃げることができない。そこに居続けて、自分に降りかかる問題に黙って立ち向かうだけ。

 僕の師匠は大きな木のような人だった。「木は偉いぞん」が 口癖だった。一旦根を降ろしたら、とことん、そこで生き続ける。何十年も。何百年も。僕もそんな「木のような人」になりたいんだ。

この動画はパタゴニアが作ってるから、それを前提で観てみる。

「木は会話する」のスーザン・シマードさんが出演されている。愚直な観察と深い考察。明瞭な解説。冒頭からドライでアカデミックな話に引き込まれる。途中、日本人の残念なコメントに少々ガッカリしながら。

僕は木を擬人化して、「木はあなたを嫌いとは言わないから」などとは言いたくない。木や山は、そんな存在ではないと思う。もっともっと崇高で、人間なんか比べることもできないくらいの存在だと思う。同列に並べるなんて、おこがましい。

木に対して強い畏敬の念を持ちつつ、僕は木こりなので、木を伐る。

スギやヒノキ(人工林)は、畑に植えられた農作物と同じで地権者があって、植栽し、育て、収穫、収入になる(僕の場合、自分の山で伐るより、依頼されて伐採、搬出、製材が収入となる)。人工林だって、自然の一部だし、生き物である事に変わりはない。

樫やナラは天然林。ドングリ系はいいタイミングで伐れば萌芽更新して、その命を絶つ事は無いけど、僕が関わる多くの場合は萌芽更新できる樹齢を超えてしまっている。炭にするために、工場にできるだけ枝先まで持ち帰る。特に広葉樹(ほぼ天然実生)は、針葉樹よりも自由に枝を伸ばしたり、自らを捻ったりしていて、重心が掴みにくく、木も固くて伐採は難しいし、危険だ。伐られまいとするチカラが明らかに大きい。針葉樹も、広葉樹も、大地に根を張り、枝葉を伸ばしている。それを伐採するには、力学的な視点と、自分がイメージしたとうりに木が倒れるように導くスキルが必要。

もちろん、安全面には最大限配慮する。僕は必ず、山の神に挨拶してから刃を入れる。木には痛点も無いし、思考する事も無いと言われている。脳では無く、DNAが本能で動かしているのが、スーザン・シマードさんの言葉からもわかる。

伐採するとき、最後は技術ではなく、祈りに近い心境。準備し、やると決めたら躊躇なく、平常心でチェンソーを入れる。ある瞬間、力学的に倒れる方向にモーメントが効いた後、木は観念したように、母なる大地の重力に引かれて倒れてゆく。倒れ始めた木は、人間の力や道具ではもう、どうしようもない。それぞれの木が、僕にその後(木そのものの使い方はもちろん、その山の環境まで)を委ねてくれていると思っている。

山や木を、自分よりも崇高な存在としながら、それらを伐採して生きながらえている(命の危険を感じながら)自分。

この矛盾にはいまだ、明確な答えは出ていないけれど、木の方が崇高な存在である事は間違いなく、わが身を差し出して僕たちを生かしてくれている存在なんだろうなと思っている。多分、肉や野菜を食わなければ生きられない種である「人」が、「いただきます」と食べ物に感謝しながら食う事に近いんじゃないかな。

僕は原生林のガイドもするけど、毎回楽しみにしていたミズナラがあった。僕はそのミズナラに会いに行ってたんだけど、そのミズナラは僕のことなんて相手にもしていないんだ。圧倒的な片思い。絶対的に届かない距離。それは人間が木と付き合う前提だと思う。

森を造るだとか、森を再生する、山を管理するなんて、そもそも無理なんだ。それは神の領域なんだ。人が植えた木を、人が伐って利用するくらいしかできない。あと、多少の天然木を頂く。その他の植物は、人間のためにあるのでは無い。

僕が所有する(固定資産税を払っている)足助の山(2町歩)も約50年前に植林されたスギとヒノキの人工林。急な斜面に岩場だらけ。ここでも木は会話しているのだ。

僕の山も、設楽町の原生林も、この動画に出てきたブリティッシュコロンビアの森も、全部同じだ。山には神が棲む。どんな小さな山の頂にも、神は棲む。そして僕たちを見守っている。

この動画は、そんなことを考えさせてくれた。特に、20分過ぎのスーザンの言葉は深く染みる。映画アバターでも描かれていたような、大地そのものが叡智であるということ。

毎日山の懐で暮らす僕だけど、もう一度、もっと静かに、深く山と対峙しようと思ったのです。

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投稿者: 炭やき人

北三河木こり人、北三河炭やき人、北三河木挽き人

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