偏屈者の戯言

たまたま見ていたフェイスブックで、素人がいかにもいい事をしている顔で「日本の山を造り、手入れする」だと。山を造るなんて、人間の能力ではできないです。せめて、植えてしまった木を伐ったり、天然の木を少し頂いたりすることくらい。災害が起こると、上流の山を守りましょうと、一時の流行みたいな声が上がる。それを自分の使命のような悲壮な顔つきで語る人が出てくる。実は、20年前の僕がそうだった。頭でっかちで、能書きばかり。能力の伴っていない理想論ばかり。

今は、自分の能力をわかっているつもりだし、発する言葉も減った。その分、黙って仕事を進めているつもりだ。

そして、たまにこうやって、恥を忍んで発信している。

僕の中で「山守・水守」でありたい気持は日々強く、大きくなっている。山の懐で生き、木を伐り、挽き、山を知るほど、それ(机上の理想論)がどれだけ自惚れた考えかを思い知る。

水源地に自分の山を持ったことで、現実が重くのしかかる。そんな簡単なことではないんだ。

人工林の間伐が遅れているのは事実だけど、それが災害の原因では無いよ。小さな一因ではあるけど。

人間ごときの仕業で、大自然が変化するなんてほとんど無いと思う。何故なら、人間はこの地球の生態系からは外れている。何も生産できず、消費することしかできない。

異論も反論もあるでしょうけど、実際に山で暮らし、山の恵みで生かされている僕の声です。山には勝てない。

時々起こる災害も、こうやって何億年もリセットし続けてきた。

地球が怒っているとか、大地が泣いているとか、スマホの画面を見てるだけで、現場に立たない人が言っても、何の説得力も無い。山は本当に怖いです。

僕がこんなに山を愛し、大切に思っていても、山や木々は僕のことなど関係ない。大地の力である重力と、太陽エネルギーと、空気と、水。たったそれだけのことしか関係しない。

大自然は冷たいものです。あっけなく、そこにいる動物の命を奪う。そこにあるのは、その真実だけなんだ。それが自然の真理。

夕べ、遥かなる大宇宙を見ながら、自分のちっぽけさを痛いほど感じたんだ。

「地球の笑顔が見たい」って、反吐が出るような言葉。地球は笑ったりしねえよ。単に、物理的、科学的事象の連続しかない。

そんなことを思いつつ、山の神には自分と自分の周りの人たちの幸せを祈願する。報道で知る、亡くなられた方たちは気の毒だけれど、その人たちを僕が救える訳がない。僕にできるのは、自分がやりたいことを、自分の限界までやり続けるだけだ。人知れず小さなことを積み重ねるだけ。

雨と風が止み、日が差す。太陽は、地球上のことなど関係なく、ただそこで燃えているだけ。

その事実を深く腹に落としつつ、やはり母なる大地と父なる太陽だと思う。ネイティブアメリカンの考えに深く共振共鳴する。

名も無き山の頂にはそれぞれ神が棲む。一つの森は、それ自体が生命体みたいだと思う。

矛盾しているようだけど、その二つの考えが妙に、バランスよく頭の中を占領している。

災害が起こるたびに、こんなことを考えてしまう偏屈者です。

投稿者: 炭やき人

北三河木こり人、北三河炭やき人、北三河木挽き人

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