山の民の知恵と精神

僕が山仕事に必ず持ち歩く「割打:カンブチ」。土佐の両刃ヨキで、金馬斧とも呼ばれ、背中に焼き入れしてあって、金槌としても使える。枝払い、伐倒するときの矢を打ったり、鎹を叩いたりする。

この「カンブチ」にはもう一つ、重要な役割がある。

片側に三本、もう片側に四本の線が彫ってあるのだけれど、三本線の意味は、「酒」「米」「塩」を表す(三本なので「三酒:みき」とも)。山にお供えを持っ て上がれないので、道具にそれを刻み、願いを託してあるのだ。僕はこのカンブチを必ず持ち歩くので、弘法様で「生」を入れてもらって、伐る前にこれを立て かけて、山の神に手を合わせるんだ。時間に追われ、うっかりそれを忘れて仕事したとき、病院へ行くほどの怪我をした。それ以来、必ずお祈りするようにして います。

四本の意味は、土(地球)、風(空気)、火(太陽の光)、水を表す。この星を見守り、司る神々たちのこと。その四つの神が山の木を育ててくれる。
もう一つ意味がある。それは「身(三)を避(四)ける」危険から身を守り、安全に仕事を終えることを願う意味だ。

山で仕事するってことは、大地の恵みを頂くということ。自然相手の仕事なので、自在(自分の在り方)をきちんと意識していないと、命を獲られてしまう気がしている。山はそれだけ恐ろしい。あるがままを受け入れるしかない相手なんだけど、その中に入って「仕事」をするのなら、時には負けない気持ちで対峙しないと、大怪我をするか、本当に命に関わる危険な状況になってしまう。

木こりは、山(地球)に対し、絶対的な敬意を払いつつ、それを踏まえた上で、立ち向かわなければならない。

昔から、道具に神々とお供えを埋め込んで、それを持ち歩き、コトあるごとに、それを掲げて祈りと感謝を捧げる。山の民の知恵と精神。

機械化されて、スケールとスピードが求められる山仕事の中にあって(それが悪いとは思っていないけど)、僕は相変わらず一本一本木に触れながら、声をかけながら、ゆっくりじっくりと山と対峙してゆきたい。

この、三本・四本の意味は深く、それを持つ山師の行いは崇高であるべき。僕はまだまだ、そんなレベルには達していませんが、その精神をつなぎたい。

嵐の前、僕を囲んでいる山々に想いを馳せながら、地味だけど、このやり方で頑張ってゆこうと、静かに覚悟を宿しているのです。

15年・・・

15年って、あっと言う間。僕は42歳でSEを辞めて炭やき職人の道へ入った。
炭やき修行はその前から続けていたけれど、すぐに収入になる訳もなく、一年くらいはガソリンスタンドでアルバイトしながら、山へ通った。その時、僕の心にあった言葉が「炭やきは地球を救う」という言葉。
これは、僕の師匠、斎藤和彦さんの師匠にあたる、杉浦銀治先生の言葉だ。
お2人は僕をこの道へ導いてくれた。斎藤さんはもう亡くなってしまったけど、僕の心と、僕が使っている窯にはまだ、魂を残してくれているんだ。
齋藤さんと銀治先生の教えは、今も僕の真ん中にある。
師走で忙しいはずなのに、ふと15年前はどんなことを考えていたのか?って想った。自分のブログを読んでみて思った。言ってることが変わっていない。
よく言えば、「ブレていない」。悪く言えば、「進歩が無い」
でも、「進歩が無い」でいいと思うんだ。僕は無愛想で偏屈だ。話も上手じゃないし、仕事もスマートに行かない。お金にも余裕が無い。
こんな僕でも、できることを愚直に続けるだけ。小さな小さな成功を積み重ねるだけなんだ。
15年前、こんなことを考えていた。

「地球を救う」・・・自惚れた言葉です。僕たちが地球を救える訳がない。人間ごときにこの母なる大地を救える力は無いのです。本当に地球を救えるのは、地球そのものの再生能力だけです。そんな事は初めから充分にわかっていました。それでも、地球を何とかしなければならないという心の声は日に日に大きくなるばかり。本当に「地球を救う」事になるのはきっと、私たちの子孫の時代でしょう。僕が今できる事は、先人たちが冒してしまった、自然の摂理から離れ歪んだ山林の実状を、少しでも元に戻す事。地球自身の再生能力の手助けをするだけ・・・
そして憧れる「マタギ」の考え方はこんな感じです。樹木には木魂が宿り、生物には霊が宿るため、この天地自然を守り支えるのは「山 の神」であり、峰々渓谷には神が宿るという山岳信仰を継承してきた。特にマタギ達は「自然のものは全て山の神が支配するもので、山の恵みは全て山の神から の授かりもの」として山の神を敬い祭りました。
 今でいう自然保護の掟を破ること、山を汚すことは神を冒涜することであり、受難につながるとして安全と健康を祈願しました。従って入山行動の始まりには、山の神の保護と豊穣を祈願する拝礼を行い、終了時に感謝の拝礼を行なって自然と人間の共存共栄を喜び合ってきた。そのとうりですね。全く、異論はありません。全てのモノに神が宿るというインディアンの考えにも通ずるものがあります。無宗教だが信心深い。僕もそうありたい。山で仕事をする時は、山の神に感謝しながら萌芽更新を促すような伐り方を絶えず考える。大切なのは必要以上に伐らない事。来年の事を考え、必ず残す事。長い目で見て、それも「地球を救う」事につながるはず。自惚れたこの言葉を敢えて使って、一歩ずつ進んでいこうと思います。

15年前、名古屋から三河の山へ通いながら、行き帰りの車の中でずっと考えていたんだ。

今は北三河の山村に棲み、現場も道具も、かけがえの無い仲間も与えられている。

15年で僕の体力は落ち、頭は薄くなった。多少は技術レベルも上がり、何とか食えるギリギリの収入も得ている。情けないけど、今月の収入で来月の仕事経費と暮らしを成り立たせるようなレベル。

でも、それも僕の生き方。

ほんの少し、メディアに取り上げられて、正直嬉しいし、自慢したいけど、それは一時のこと。やっぱり僕は山に入り、炭をやき、木を挽く。

金持ちになること、名を残すこと、誰かに勝つこと・・・

そんな欲を捨て去って、軽やかに、躊躇なく、山の懐で働ける喜びを味わいつつ、次の世代へ繋いでゆこうと思うのです。

僕が目指す「頑固で楽天的な爺」になるために。

山と向き合う

炭やきの僕と、木こりの僕は入る山が違う。
炭の原木は天然林、木こりは人工林。
先週、福井の鋸谷さんの山を見せてもらう機会があった。今まで、いろんなところで人工林の話を聞き、管理や手入れについて学んできた。KOA森林塾も通った。人工林に関する本も読んだ。森林組合でも学んだ。僕なりに、僕のスタイルが少しづつ、できてきたように思う。鋸谷さんから教えていただいたことで、それがクッキリとしてきた。今まで学び、実際に間伐をしながら経験してきたこと。それは現場ごとに違うけれど、あえて数値で示すなら1haあたり3000本植えられたスギ・ヒノキについては、最終的に(植えられて80年くらいで)、半分まで減らすことだ。樹冠を見て、葉っぱと空が半分見えるくらいに間伐する(樹冠占有率を50%にする)。
すると、相対幹距比は20に近づき、胸高直径断面積合計は1haあたり、30~40㎡に近づく。数値的な裏付けを持って、山主さんに間伐によるグランドデザインを提案する必要がある。何本伐ったら、何年後にこれくらいになる。それを具体的に示すのだ。
それで大切な山を任せてもらう。そして、責任を持って仕事する。伐った木は基本的に全ていただく。
どの木を伐るのか?それを選ぶときには感性を優先させる。まず生枝が多く、元気な木を残す。それ以外の木から伐る木を決めてゆく。僕の本当に一番大切な仕事は、木を伐って儲けることではない。
人間の勝手で植えられ、現状こうなってしまった山や森。少しでも、それを元に戻したい。人が植えた木々を伐ることで、母なる地球を救いたい。その一心だ。だから、僕の手では伐らない木もある。いい木は次の世代に残すんだ。次の世代、またはその次の世代の子孫たちが考え、決めること。僕たちには、それを残してやることしかできない。
適正に間伐をしたら、後は母なる地球に委ねる。その森が正常な状態に戻るのに、70年以上かかるだろう。人が植えた木々が占有する空を半分空けたら、後は自然淘汰される。
僕はその光景を見ることはできない。でも、それでいい。
自分で見られない覚悟はとっくにできている。
僕たちのじいちゃんたちが植えて、親父たちが止むに止まれず手入れを放棄し、それを僕たちが手入れし、次の世代が使うんだ。
子孫のために、僕たちの世代は残すと決めた木を伐らず、伐るべき木を伐ることに専念する。それが役目だから。
僕たちが伐る木は、お世辞にも「いい木」とは言えない。いわゆる小径木だったり、曲がり木だったり。そんな木だって、誰かが想いを込めて植えた木。
旬・新月期・葉枯らし・丁寧な製材に拘って、真面目に仕事して、それで食わせてもらう。
僕は山の恵みで生かされているということだ。生き物を相手にするのだから、生きている木の命を絶つのだから、タイミングと方法には気を使う。それが母なる地球と、父なる宇宙(そら)の動きを感じながらの木こりなんだ。
自分勝手に植えてしまった人間側の責任なんだ。活発な夏の間の活動期を過ぎ、静かな冬支度を始めた頃に始まり、暖かくなって活動期の準備を始める頃まで。それが伐り旬。
生き物たちのバイオリズムは、月の重力と密接な関係にある。新月の頃、その営みは静かな下降ピークを迎える。そのタイミングで伐る。
すると、木の中のでんぷんが少ないので、腐りにくく割れにくい材になる。
伐った木は、枝葉をつけたまま、森の中に数ヶ月置く。その木が生きてきた森で、蒸散作用によって静かに、次の役目を担うために乾きながら、枯れながら、しかし決して死んでしまうのでなく、変化してゆく。それが葉枯らし。
その木々を、その木の年輪を見ながら、木を楽にさせてあげるようなラインで挽く。それが、誰かの「命の箱」になる。何世代も使えるような「命の箱」に。
一生懸命生きてきた木々に、次の命を吹き込むような、僕はそんな仕事をしたい。木挽きも炭もそうだ。自慢話でも何でもなく、これが僕の生き様みたいなモノ。儲からず、愚鈍で、汚れた作業着に、孤独な作業。けれど、名も無き山の神と、お天道様に見守られて、誰に何と言われようと、これを続ける。
僕の手の届く範囲で、小さなことを積み重ねることしかできない。「まだ見ぬ子孫のために」

それだけはハッキリと言える。カッコ悪くても、薄汚れた服を着ていても、金はなくても、充実している毎日と、未来への希望。「まだ間に合う」そう信じて・・・・ノートに書くことはくどくて長い文章です。誰かが共感してくれたら嬉しい。誰も共感してくれなくても、これを書くことによって、僕の覚悟が深まります。ブログとも連動させています。読んでくださり、ありがとうございました。

理想的な人工林の姿。加子母の森です。
理想的な人工林。加子母の森です。

百姓になりたい

僕は百姓になりたい。百姓とは、「百の姓を持つ人」つまり、「百の仕事をこなせる人」のこと。

田んぼ・畑で食べ物を作り、山に入れば、木を伐り、出し、里へ戻って木を挽き、炭をやき、挽いた木で家を建て、家具を作り、やいた炭を使って暮らす。

生きることが仕事。そんな生き方。

分業化、専門化された今の稼ぎ仕事。もちろん、僕もそこにがんじがらめになってる。でも、僕はもがきながら、這いつくばりながらでも、「百姓」になりたいんだ。

これはずっと昔、子供の頃からの夢。都会から山村に移り棲み、木こりや炭やきをしている僕の目標になってる。

僕には、それぞれの道で学びたい人がたくさんいる。そして僕には憧れている人がたった一人いるんだ。

それは、70歳になった僕自身。しわくちゃになり、身体も衰えて、動きも悪くなっているはずだけど、70歳の僕は相当カッコイイ(はず)。

直接お金を得ることが「稼ぎ」。炭やきも木こりも木挽きも稼ぎです。

お金にはならなくても、自分の現在のため、自分の未来のため、大切な人の現在のため、大切な人の未来のため、愛するこの土地のため、母なる地球のために、この丈夫な身体と精神を使うことが「仕事」だと思うんだ。

「稼ぎと仕事、両方できて一人前」それが百姓の入り口。本物になるための最低条件。

「百姓」に一歩近づくために、仲間たちと新たな試みを始めます。

木こりの僕が伐った木を、木挽きの僕が挽いて、それを形にしてゆく。まだ詳しくは書けないけれど、山から製品まで関わります。

もちろん、そんな簡単な仕事では無い。その道のプロとの協働しか道は無い。中心になって導いてくれるのは一流のデザイナーであり、家具職人です。

そして、共に戦ってくれる大切な仲間たち。木工のプロ、大工、農業のプロ。そして僕は山のプロ。それぞれの道を極めているオトコ・オンナたちの集まり。

大事なことは、みんながお互いの仕事を助け合うこと。教え合うこと。それが「百姓」への道。

コアメンバー全員が「百姓」を目指すんだ。

このプロジェクト、人間と道具と場所まで決まりました。コアメンバーは不変です。集めた人材は、僕たちのえこひいきで集めた。

この地でしかできないことでキチンと稼ぐ。これだけはハッキリと言えてる。

そのプロジェクトの、更に先にあるもの。

それは人が集まれる場所(カフェのような)を作ること、エネルギーを自分たちで作りながら作業すること(僕たちが持ってる材料で発電する)、この地区の未来を担うような人材を育てること(農業で頑張ってる仲間たちの冬仕事を作り出す)。

夢は尽きない。

そして、それを実現するための人材、アイテム、スキルはすでに揃っている。初動の運転資金さえ何とかなれば、僕たちは船を漕ぎ出します。

どうか、お見守り下さい。

どうか、知恵を貸して下さい。

どうか、一緒に汗を流して下さい。

僕たちは、必ず応えます。

命のリズム

毎日太陽が昇り、沈む。

その位置が日々変わってゆく。

でも毎年、同じ日に、同じ位置に戻る。

一年で季節を巡る。命のリズムの繰り返しだ。

そのリズムは、母なる地球が、父なる太陽の周りを大きく回るときのリズムだ。

今日も山の稜線に、太陽が姿を消してゆく。

太陽の動くスピードは、悠久の昔から変わらない。いや、太陽は動かない。

この地球が回転するスピードだ。地球が自転するときの小さな命のリズムだ。

宇宙にぽっかりと浮かんで、堂々と回転しているこの星。

時計を外して、そのスピードを自分の身体とシンクロ(同期)させるんだ。

難しいことはない。それが本来の時の刻みだから。この星で生きる全ての命、森羅万象このスピードで回りながら、宇宙を旅しているのだから。

偏屈な炭やき木こりは、日々そんなことを宇宙(そら)に想い馳せながら、名も無き山の懐で暮らしているのです。

ただそれだけ

心から想う。この星を子孫に残したい。

直接血が繋がっていなくても、会う事の無い子孫に、この星を本来の姿で残したい。ただそれだけ。僕がしようとすることを、敢えて世に問えば、人はああだのこうだの言う。欲深く、薄汚い、下品な大人がああだのこうだの言う。

僕はただ、山に棲み、炭をやき、森を守りたいだけなのに。

考えてみれば、まともなことを言って聞かせてくれる人たちはみな、山に棲む人たちだ。

口先だけで世の中を渡ってきた人たちは、結局何も解っていない。

この星の防人となる人たちは結局、いつも現場で汗かく人たちだ。

僕もそうありたい。僕は名も無き山の懐に棲む、名も無き山守でいい。金持ちになること、名を残すこと、誰かから評価されることから離れてみた。それによって見えてくること、この掌に乗るような幸せを感じられること、小さな小さな成功を積み重ねること。まず、そこから。そこから、身近な周りの人たち、地域の人たちに拡がってゆくと思うんだ。

日々、動くこと

昨日も草刈り、今日も草刈り。異常なくらい暑い毎日なので、草を刈る時間は朝の8時から10時、夕方4時から5時と決めている。草刈り機の燃料が尽きたら、そこで終わり。無理してやらない。これが鉄則。

毎日名も無き山の懐に抱かれて眠り、鳥の声で目覚める。何てことはない、普通の日々。お金を稼ぐためだけの毎日でもなく、自分で決めた段取りで、自由にやらせてもらっている。でも、最低限の現金収入は必要。食費、家賃、光熱費、車の維持費(可動車で3台)、車の燃料、道具の維持費、道具の燃料・・・今のところ、何とかなっている。今月の稼ぎが来月の生活費に回ってるけど・・・地べたを這いずり回って、熊手で小銭をかき集めるような暮らし。

それでも、僕は毎日落ち着いているし、充実しているんだ。それは山を相手に仕事させてもらっているからかな。

山は、母なる大地そのものだ。空気を生み、水を育む。全ての生き物の源だと思う。海もそうだけど、僕は山が好きだ。

実は昨日、ジブリの鈴木敏夫さんと会って話をする機会があった。僕がリスペクトする大工の中村武司さんの計らいで。中村さんは、往復2時間かけて、鈴木さんをこの山村へ連れてきてくれた。このしがない木こりの話を聞かせるために。

僕はすごく緊張するかもしれないと思った。けれど、実際には全く平常心で深い話ができたんだ。それが嬉しかった。鈴木さんは、穏やかで大きな器を感じさせてくれた。さすがだと思った。

僕が預かっている現場にお連れして、伐採を見てもらった。50年近くひっそりと生きてきた、一本のヒノキの命を頂く行為。生産というより、搾取に近い。だからこそ、僕は伐った木をきちんと使いたい。本気でそう考えている。

何故木こりを始めたのか?どうして炭をやいているのか?何のために木を挽くのか?あらためてそんなことを聞かれ、話をしてみて、あらためて自分は恵まれているし、こんな幸せな毎日は他には無いとつくづく思ったんだ。

地球の環境のためとか、子孫のためとか、僕はそんなカッコイイ事を言ってる。でも本当の動機はただ、僕がしたいからしているだけ。結果的に、誰かの役に立ったり、誰かを幸せにしたり、地球に優しかったりすればそれでいい。

自信と迷いと想像力と現実とポジティブとネガティブと楽観と悲観。その全てを自分で受け止め、受け入れる。自分の感性を信じて日々、動く。

頭を下げる相手は自分で決める。

憧れるのは、自分自身の未来の姿。

結局、全てのことは約束されたことなんだし、たった独りで山仕事をしていても、仲間や愛する人たちの助けや情けがあってこそ僕は働けるんだ。

美しく優しき母なる地球は、黙って僕らを乗せて回っているし、そんな地球がぽっかりと浮かんだ父なる宇宙(そら)は力強く、しかも穏やかに、絶対的に存在しているんだ。たとえ僕の命が尽きても、そんなことは関係なく、存在を続ける。

無茶はせず、多少の無理はして、手を抜かず、でも自分の身体と相談しながら動く。

父なる宇宙(そら)は僕を見守ってくれる。

名も無き山に棲む神々たちは、僕の全てを見抜いている。

ナウシカやもののけ姫を、僕は何回も観ているし、観る度に感動しているんだ。

鈴木さんの描きたいことって、普遍であり不変なことなんだと思う。人間が一番偉いのではなく、全ての生き物、森羅万象宇宙に生かされているってことなんじゃないかな。

日々の仕事で、それを感じながら、それをこの手で考えることができる僕は、本当に恵まれているんだ。そう感謝しながら、日々動いてゆきます。

ふと思うこと・・・

ネ イティブの言葉を紐解いていくと、生きとし生けるもの全ては対等であり、全ての生き物は地球からの恩恵で生かされているとある。僕も心からそう思う。人間 だけがこの星の住人ではない。むしろ、人間以外の生き物の方が多いのだ。そもそも、人間は食物連鎖に組み込まれていない。人間は消費するだけだ。生産して いるように見えても、それは地球の恵みを頂いているに過ぎない。ひたすら、他の種を漁り、無駄な殺戮を繰り返し、地球を痛めつけ、自分たちだけが快楽に酔 いしれている。快楽のために他の命を奪うのは、人間だけだとされる。

46 憶年の間、地球という惑星が育んできた資源を、あっと言う間に使い果たしてしまった。自らの身体を他の生物に捧げない動物は人間だけだ。生態系ピラミッド からも外れている。人間の自惚れが、自分本来の居場所すら奪ってしまったことを考え直すべきだ。人間が動物だった頃、地球は穏やかでとても豊かだったはずだ。

人工林問題。 これは国としての大失敗だ。大造林政策と呼ばれる昭和の大失態。しかし、実際に山に木を植えたのは、里山に暮らす平凡な山の衆であった。孫に少しでも財産を残そうと、歩いて何日もかかる山奥にまで植林したのだ。そんな祖先の偉業を悪く言えない。

植林するときは、間引きを前提として多く植える。その間引きをしてこなかった世代の責任なのだ。高度成長と呼ばれる幻を必死で追いかけるうちに、一時の快楽に惑わされているうちに、見向きもされない山の木は物も言わずにひしめき合った状態で成長を続けた。

毎年患者が増えている花粉症は、人間が作り出した悪魔だと思う。末期的な状況が近づいている人工林では、木々がその危機感から子孫を多く残そうと、異常な量 の花粉を作り出す。天然林であれば必要の無い数の花粉が宙を舞う。人間の愚行は、自分たちの健康被害にまで及んでしまっている。

結局、自分の首を自分で締めるような行いをしている人間たちだけれど、僕はまだ間に合うと思う。いまから始めれば、きっと間に合う。「地球は子孫から借りた もの」という言葉を信じ、自分たちにできる小さな事から始めて、微々たる力を結集していけば、何世代か後の子孫たちは救われると思う。CO2の問題もそう だ。排出量を減少に転じる事ができれば、30~40年でかなりの部分は元に戻るそうだ。

僕は毎日山で暮らしている。都会からやってきたIターン者だ。だからこそ、より敏感にわかる。「自然の中の不自然」

人工林の中に入った時の不気味さがそれだ。コンクリートで囲まれた都会では感じられないくらいの薄気味悪い変化を感じる。人間の驕りが骨身に沁みてくる。植えてしまった木は大切にしなければ。一旦手を入れた森は、責任を持って手を入れ続けなければ。それが難しいのなら、間伐して、木を半分に減らすことから始める。

林内を片付けたら、後は母なる地球に任せよう。広葉樹を植えたりしてはいけない。どこに、どんな植物が生えるのか?それは神の仕事だ。埋土種子と土着菌が太陽の光で活発に動く。そんなきっかけを与えたら、後は大人しく待つのだ。30年も待てば充分だろう。逆に、それが待てないのなら、森林環境の事を口にする のを止めるべきだ。森の時間は、僕たち人間の時計で計れるような時間ではない。森の時計は優しく、ゆっくりと進む。

自然とは、地球を含む宇宙そのものだ。母なる大地、父なる宇宙(そら)、滔々と流れを止めない子孫たる水。

そろそろ考え直さないと本当に取り返しがつかないところまで行ってしまう。

僕たちにできる事は小さな事だ。今更便利な生活を捨てる事はできない。現実的に、クルマや携帯電話、パソコンが無い生活は送れない。だが、昔の里山に暮らし た人々の知恵をもう一度学び、化石燃料に依存したエネルギー消費を少しづつ減らす努力は必要だと思う。山の恵みに感謝しつつ、エネルギーを使わ せてもらう。

近いうちに必ずやってくる、人口減少を発端とする右肩下がりの世の中。消費するためだけに生産するような愚かさから目覚めて、昔ながらの穏やかな生活に戻る こと。結局、それが一番上品でカッコイイ生き方なのだ。本当に豊かな暮らしとは、昔ながらの里山暮らしであると、僕は確信を持っている。

どんな種であろうと、自然をコントロールできる訳が無い。それなら、人間も動物の一種に過ぎないと、地球の恵みに感謝しつつ、質素に暮らす事が、何よりも大切な子孫の為に僕たちができる事なのではないだろうか。その暮らしの中で重要なのが「火」だ。薪や炭といった、「火の文化」を復活させることである。

「CO2固定」という、地球のための炭(燃やさない炭)と、「火の文化」をもう一度見直し、暖かくて癒される薪炭を復活させて暮らしを豊かにする炭(燃やす炭)の両方を、この地球の為に作り続けることが僕の生涯を賭けた仕事なんだ。

僕たちの存在は、それ以上でも、それ以下でもない。本来の姿で子孫に地球を返す事が、僕たちの目標であり、幸せであると思う。

それを目指し、ひたすらに黙って炭をやき、山を守り、水を守る。

名も無き緑の防人になる事。それが僕の望みだ。

月がキレイな空を眺めながら想う。

無題

地球に優しくされるために、一体何をすればいいのか?

みんな価値観が違う。

みんな方法が違う。

みんな想いや考えが違う。

少なくとも,

人はみな、自分のことしかわからないし、

自分のことしかできない。

僕は、それぞれの人は自分に対してのみ、

誠意を持って責任を果たせば良いと思っている。

だから、誰かと争って勝つことが目的ではなく、

自分が気持ちよく、最低限他人に迷惑をかけず、

誰とも戦わないけれど、誰にも負けないような、

自己満足といわれても構わないから、

たった独りでも構わないから、

孤高を貫いて、孤独を楽しんで、

自分で決めた仕事を黙々とやり遂げたいんだ。

あえて、何になりたいか?と問われたら

「定点」になりたい。

どこか山奥の、ひっそりとした場所。

母なる大地を踏みしめる。

山々に囲まれ、木々に抱かれ

父なる宇宙(そら)からは太陽の光が降り注ぎ、

満天の星たちに見守られ、

豊かな水音が聞こえ、確かな人の営みとして、

炭やく煙の甘い匂いに包まれるような、

季節の巡りを味わいながら、

毎年同じ時期に同じ情景に感動し、

山の恵みを頂いて質素に生きる。

父なる太陽と、月の巡りで月日を知り、星の位置を読んで時を感じる。

そして、大事なことほど簡単に、自分の感性で物事を決める。

迷ったら、7世代先の子孫に問うような、

そんな暮らしを送りたいんだ。

最期は、名も無き山守として、

どこかの水守として、

名も無き山の神にこの身を委ねたいと思う。

今はまだ邪心もあるし、お金に対する未練もある。

我欲を捨てきれないみっともない、自分がいる。

いつになったら、どこかの「定点」になれるのか。

いや、すでに僕はどこかの「定点」になっているのか。

彷徨いながら、宇宙(そら)に想いを馳せる。

実は、今住んでいる集落に永住しようと決めている。

生きている間はもちろん、死んだらこの集落のお宮さんに挨拶して、それからこの集落の裏山へ消えるんだ。僕が最後に暮らした洞で、僕はこの地の先祖の一人になる。

ここが僕の「定点」になるのかな。

それとも、永遠に浮遊するのかな。