自分で段取りして、自分で動いていると、「自由」を感じる。だけど、「自由」とは少し違う感覚なんだ。
僕は「自由」であるよりも、「自在」でありたいと強く願っている。
「自由」も「自在」も似た言葉なんだけど、違うと思う。
これは僕の個人的な考えなので、それを前提に読んで下さい。
「自由」は「お金」で買える。「お金」があれば、好きな処に行けて、好きな処に住み、好きなモノが食える。時間だって、お金があれば得られる。都会の真ん中で暮らしていれば、お金さえあれば、いつだって、欲しいモノが得られる。
「自在」は、自ら存在すること。お金ではなくて、自ら自分が生きてゆくために必要なモノを造り出すことだと思う。例えば、自分と家族の食べ物を自分で作ること、自分たちが使うエネルギーを自分で何とかすること。自分たちが暮らす家を、自分たちで建てること。もしも完璧な自給自足が存在するのなら、それこそが「自在」だと思うんだ。
簡単に語れることではないし、田舎暮らししていたって、お金は必要。現金収入が無ければ、生きてゆけない。ちょうど、「稼ぎ」と「仕事」の関係にも似ているような気がする。
僕なんて、まだまだ、どちらも半人前。「自由」も得ていないし、「自在」に生きていない。その狭間でもがいたり、じっとしたり、諦めたり、気持ちを奮い立たせたり、考えたり、あえて考えるのをやめて、無心で動いてみたり。僕が自在にしていることなんて、ホントに知れてる。せいぜい、毎日の風呂と暖房に使う薪を買わずに済んでいることくらい。
家を建てる土地と、田んぼと畑は確保した。これからは、少しずつ、住と食を「自在」に得られるようにしてゆこう。それでも、「衣」は「自在」にはならない。ネットやユニクロで安くて丈夫な衣類を買うことになりそうだ。
毎日の山仕事ではチェンソーを使い、ガソリンを焚き、オイルを撒き散らす。車で移動するし、ディーゼルのユニックで木を寄せて積み込んで運ぶ。
200Vのモーターを回して木を挽く。炭をやくにしても、原木を運んで、自分が移動するためには機械を動かさなきゃいけない。それらを維持するためには、「稼ぎ」が必要。
僕みたいなフツウのオトコが、誰かの役に立ちたいと願い、自分のできることから、自分のできる範囲で始めたこと。仲間にも恵まれている。
僕の仕事や生き方を見て、「自由」でいいね。と言ってもらえるけれど、自分の好きなことで食っていくって、とても大変なことなんだ。
「自在」な部分が少なければ少ないほど、苦労が多い。だからこそ、僕の「自在」を増やしてゆきたい。
誰にも迷惑をかけず、静かな山村でひっそりと、名も無き山々に囲まれ、それぞれの山に棲む神に見守られ、お天道様に見守られ、ちっぽけで貧弱だとしても、堂々と「自在」に生きてゆきたいと、心から願い、それを目標に少しずつ動いています。