- かすかに聞こえる声は誰の声だろう?
- 呼びかけるのは誰だ?
- 心に響く声は何だろう?
- 私をどこかに導く?
- 心に響く声は何だろう?
- 呼びかけるのは誰だ?

- 新たな始まりだ。
- 何かが始まる。
- 自然の恵みにあふれる土地。
- ここは実りの大地。
- 自分を信じ、汗を流して働こう。
- ここは実りの大地。
- 自然の恵みにあふれる土地。
- 何かが始まる。
立ち木から命の箱へ

心から想う。この星を子孫に残したい。
直接血が繋がっていなくても、会う事の無い子孫に、この星を本来の姿で残したい。ただそれだけ。僕がしようとすることを、敢えて世に問えば、人はああだのこうだの言う。欲深く、薄汚い、下品な大人がああだのこうだの言う。
僕はただ、山に棲み、炭をやき、森を守りたいだけなのに。
考えてみれば、まともなことを言って聞かせてくれる人たちはみな、山に棲む人たちだ。
口先だけで世の中を渡ってきた人たちは、結局何も解っていない。
この星の防人となる人たちは結局、いつも現場で汗かく人たちだ。
僕もそうありたい。僕は名も無き山の懐に棲む、名も無き山守でいい。金持ちになること、名を残すこと、誰かから評価されることから離れてみた。それによって見えてくること、この掌に乗るような幸せを感じられること、小さな小さな成功を積み重ねること。まず、そこから。そこから、身近な周りの人たち、地域の人たちに拡がってゆくと思うんだ。
昨日も草刈り、今日も草刈り。異常なくらい暑い毎日なので、草を刈る時間は朝の8時から10時、夕方4時から5時と決めている。草刈り機の燃料が尽きたら、そこで終わり。無理してやらない。これが鉄則。
毎日名も無き山の懐に抱かれて眠り、鳥の声で目覚める。何てことはない、普通の日々。お金を稼ぐためだけの毎日でもなく、自分で決めた段取りで、自由にやらせてもらっている。でも、最低限の現金収入は必要。食費、家賃、光熱費、車の維持費(可動車で3台)、車の燃料、道具の維持費、道具の燃料・・・今のところ、何とかなっている。今月の稼ぎが来月の生活費に回ってるけど・・・地べたを這いずり回って、熊手で小銭をかき集めるような暮らし。
それでも、僕は毎日落ち着いているし、充実しているんだ。それは山を相手に仕事させてもらっているからかな。
山は、母なる大地そのものだ。空気を生み、水を育む。全ての生き物の源だと思う。海もそうだけど、僕は山が好きだ。
実は昨日、ジブリの鈴木敏夫さんと会って話をする機会があった。僕がリスペクトする大工の中村武司さんの計らいで。中村さんは、往復2時間かけて、鈴木さんをこの山村へ連れてきてくれた。このしがない木こりの話を聞かせるために。
僕はすごく緊張するかもしれないと思った。けれど、実際には全く平常心で深い話ができたんだ。それが嬉しかった。鈴木さんは、穏やかで大きな器を感じさせてくれた。さすがだと思った。
僕が預かっている現場にお連れして、伐採を見てもらった。50年近くひっそりと生きてきた、一本のヒノキの命を頂く行為。生産というより、搾取に近い。だからこそ、僕は伐った木をきちんと使いたい。本気でそう考えている。
何故木こりを始めたのか?どうして炭をやいているのか?何のために木を挽くのか?あらためてそんなことを聞かれ、話をしてみて、あらためて自分は恵まれているし、こんな幸せな毎日は他には無いとつくづく思ったんだ。
地球の環境のためとか、子孫のためとか、僕はそんなカッコイイ事を言ってる。でも本当の動機はただ、僕がしたいからしているだけ。結果的に、誰かの役に立ったり、誰かを幸せにしたり、地球に優しかったりすればそれでいい。
自信と迷いと想像力と現実とポジティブとネガティブと楽観と悲観。その全てを自分で受け止め、受け入れる。自分の感性を信じて日々、動く。
頭を下げる相手は自分で決める。
憧れるのは、自分自身の未来の姿。
結局、全てのことは約束されたことなんだし、たった独りで山仕事をしていても、仲間や愛する人たちの助けや情けがあってこそ僕は働けるんだ。
美しく優しき母なる地球は、黙って僕らを乗せて回っているし、そんな地球がぽっかりと浮かんだ父なる宇宙(そら)は力強く、しかも穏やかに、絶対的に存在しているんだ。たとえ僕の命が尽きても、そんなことは関係なく、存在を続ける。
無茶はせず、多少の無理はして、手を抜かず、でも自分の身体と相談しながら動く。
父なる宇宙(そら)は僕を見守ってくれる。
名も無き山に棲む神々たちは、僕の全てを見抜いている。
ナウシカやもののけ姫を、僕は何回も観ているし、観る度に感動しているんだ。
鈴木さんの描きたいことって、普遍であり不変なことなんだと思う。人間が一番偉いのではなく、全ての生き物、森羅万象宇宙に生かされているってことなんじゃないかな。
日々の仕事で、それを感じながら、それをこの手で考えることができる僕は、本当に恵まれているんだ。そう感謝しながら、日々動いてゆきます。
ネ イティブの言葉を紐解いていくと、生きとし生けるもの全ては対等であり、全ての生き物は地球からの恩恵で生かされているとある。僕も心からそう思う。人間 だけがこの星の住人ではない。むしろ、人間以外の生き物の方が多いのだ。そもそも、人間は食物連鎖に組み込まれていない。人間は消費するだけだ。生産して いるように見えても、それは地球の恵みを頂いているに過ぎない。ひたすら、他の種を漁り、無駄な殺戮を繰り返し、地球を痛めつけ、自分たちだけが快楽に酔 いしれている。快楽のために他の命を奪うのは、人間だけだとされる。
46 憶年の間、地球という惑星が育んできた資源を、あっと言う間に使い果たしてしまった。自らの身体を他の生物に捧げない動物は人間だけだ。生態系ピラミッド からも外れている。人間の自惚れが、自分本来の居場所すら奪ってしまったことを考え直すべきだ。人間が動物だった頃、地球は穏やかでとても豊かだったはずだ。
人工林問題。 これは国としての大失敗だ。大造林政策と呼ばれる昭和の大失態。しかし、実際に山に木を植えたのは、里山に暮らす平凡な山の衆であった。孫に少しでも財産を残そうと、歩いて何日もかかる山奥にまで植林したのだ。そんな祖先の偉業を悪く言えない。
植林するときは、間引きを前提として多く植える。その間引きをしてこなかった世代の責任なのだ。高度成長と呼ばれる幻を必死で追いかけるうちに、一時の快楽に惑わされているうちに、見向きもされない山の木は物も言わずにひしめき合った状態で成長を続けた。
毎年患者が増えている花粉症は、人間が作り出した悪魔だと思う。末期的な状況が近づいている人工林では、木々がその危機感から子孫を多く残そうと、異常な量 の花粉を作り出す。天然林であれば必要の無い数の花粉が宙を舞う。人間の愚行は、自分たちの健康被害にまで及んでしまっている。
結局、自分の首を自分で締めるような行いをしている人間たちだけれど、僕はまだ間に合うと思う。いまから始めれば、きっと間に合う。「地球は子孫から借りた もの」という言葉を信じ、自分たちにできる小さな事から始めて、微々たる力を結集していけば、何世代か後の子孫たちは救われると思う。CO2の問題もそう だ。排出量を減少に転じる事ができれば、30~40年でかなりの部分は元に戻るそうだ。
僕は毎日山で暮らしている。都会からやってきたIターン者だ。だからこそ、より敏感にわかる。「自然の中の不自然」
人工林の中に入った時の不気味さがそれだ。コンクリートで囲まれた都会では感じられないくらいの薄気味悪い変化を感じる。人間の驕りが骨身に沁みてくる。植えてしまった木は大切にしなければ。一旦手を入れた森は、責任を持って手を入れ続けなければ。それが難しいのなら、間伐して、木を半分に減らすことから始める。
林内を片付けたら、後は母なる地球に任せよう。広葉樹を植えたりしてはいけない。どこに、どんな植物が生えるのか?それは神の仕事だ。埋土種子と土着菌が太陽の光で活発に動く。そんなきっかけを与えたら、後は大人しく待つのだ。30年も待てば充分だろう。逆に、それが待てないのなら、森林環境の事を口にする のを止めるべきだ。森の時間は、僕たち人間の時計で計れるような時間ではない。森の時計は優しく、ゆっくりと進む。
自然とは、地球を含む宇宙そのものだ。母なる大地、父なる宇宙(そら)、滔々と流れを止めない子孫たる水。
そろそろ考え直さないと本当に取り返しがつかないところまで行ってしまう。
僕たちにできる事は小さな事だ。今更便利な生活を捨てる事はできない。現実的に、クルマや携帯電話、パソコンが無い生活は送れない。だが、昔の里山に暮らし た人々の知恵をもう一度学び、化石燃料に依存したエネルギー消費を少しづつ減らす努力は必要だと思う。山の恵みに感謝しつつ、エネルギーを使わ せてもらう。
近いうちに必ずやってくる、人口減少を発端とする右肩下がりの世の中。消費するためだけに生産するような愚かさから目覚めて、昔ながらの穏やかな生活に戻る こと。結局、それが一番上品でカッコイイ生き方なのだ。本当に豊かな暮らしとは、昔ながらの里山暮らしであると、僕は確信を持っている。
どんな種であろうと、自然をコントロールできる訳が無い。それなら、人間も動物の一種に過ぎないと、地球の恵みに感謝しつつ、質素に暮らす事が、何よりも大切な子孫の為に僕たちができる事なのではないだろうか。その暮らしの中で重要なのが「火」だ。薪や炭といった、「火の文化」を復活させることである。
「CO2固定」という、地球のための炭(燃やさない炭)と、「火の文化」をもう一度見直し、暖かくて癒される薪炭を復活させて暮らしを豊かにする炭(燃やす炭)の両方を、この地球の為に作り続けることが僕の生涯を賭けた仕事なんだ。
僕たちの存在は、それ以上でも、それ以下でもない。本来の姿で子孫に地球を返す事が、僕たちの目標であり、幸せであると思う。
それを目指し、ひたすらに黙って炭をやき、山を守り、水を守る。
名も無き緑の防人になる事。それが僕の望みだ。
月がキレイな空を眺めながら想う。
地球に優しくされるために、一体何をすればいいのか?
みんな価値観が違う。
みんな方法が違う。
みんな想いや考えが違う。
少なくとも,
人はみな、自分のことしかわからないし、
自分のことしかできない。
僕は、それぞれの人は自分に対してのみ、
誠意を持って責任を果たせば良いと思っている。
だから、誰かと争って勝つことが目的ではなく、
自分が気持ちよく、最低限他人に迷惑をかけず、
誰とも戦わないけれど、誰にも負けないような、
自己満足といわれても構わないから、
たった独りでも構わないから、
孤高を貫いて、孤独を楽しんで、
自分で決めた仕事を黙々とやり遂げたいんだ。
あえて、何になりたいか?と問われたら
「定点」になりたい。
どこか山奥の、ひっそりとした場所。
母なる大地を踏みしめる。
山々に囲まれ、木々に抱かれ
父なる宇宙(そら)からは太陽の光が降り注ぎ、
満天の星たちに見守られ、
豊かな水音が聞こえ、確かな人の営みとして、
炭やく煙の甘い匂いに包まれるような、
季節の巡りを味わいながら、
毎年同じ時期に同じ情景に感動し、
山の恵みを頂いて質素に生きる。
父なる太陽と、月の巡りで月日を知り、星の位置を読んで時を感じる。
そして、大事なことほど簡単に、自分の感性で物事を決める。
迷ったら、7世代先の子孫に問うような、
そんな暮らしを送りたいんだ。
最期は、名も無き山守として、
どこかの水守として、
名も無き山の神にこの身を委ねたいと思う。
今はまだ邪心もあるし、お金に対する未練もある。
我欲を捨てきれないみっともない、自分がいる。
いつになったら、どこかの「定点」になれるのか。
いや、すでに僕はどこかの「定点」になっているのか。
彷徨いながら、宇宙(そら)に想いを馳せる。
実は、今住んでいる集落に永住しようと決めている。
生きている間はもちろん、死んだらこの集落のお宮さんに挨拶して、それからこの集落の裏山へ消えるんだ。僕が最後に暮らした洞で、僕はこの地の先祖の一人になる。
ここが僕の「定点」になるのかな。
それとも、永遠に浮遊するのかな。

僕は恵まれている。ここ、旭の山村に空き家を借りて住み始めて5年。僕が目指す生き様、理想の暮らし方が段々と見えてきた。その暮らしは独りかもしれないし、誰かと一緒かもしれない。
僕は木こりだ。木を選び、伐るべき日に伐り、然るべきその時まで山で乾かし(葉枯らし)、その木を挽く仕事のイメージを基に木を刻み、丁寧に出す。
僕は木挽きだ。その木が生きるような形に挽く。生まれ変わった木々たちは、僕が生涯を過ごす家の部材になる。デザインや設計はプロの手を借りる。建築も、プロの手を入れながらも、可能な限り自分で。木を選ぶところから、家になるまで、自分のこの手を使うんだ。
派手ではないけれど、存在感のある家になる。そこには、土間があり、納屋のようなスペース。
土間にはいつも、大きな火鉢に炭火が熾きている。僕はその土間で過ごす時間が多くなるはずだ。
僕は炭やきだ。裏山には炭窯を打つ。炭やき職人の一番大切な道具を家の裏に造る。それが僕の一番やりたいことだから。必要最低限稼ぐために、他にもいろいろとやります。山の恵みを、山にあるエネルギーを使いつつ、あるようで無かったモノを造り出す仕事です。
僕が棲む家の細かいデザインやディテールはこれから。コンセプトは「炭やき・木こりの棲む家」。名付けて「木こりモジュールハウス」。
平屋で、越し屋根の北窓採光。小さくてカッコイイ家。柱や梁はしっかりと組む。木組みに拘りすぎないように、金具を使うのもOK。壁は板倉造りにするか、縦使いにするか。少なくとも、葉枯らししたスギをたっぷりと使う。床や壁は3寸使いで。断熱材がいらないくらいの家にしたいんだ。
その家は、モデルハウスになる。僕たちの仕事につなげたいと真剣に考えているし、準備も着々と進んでる。
小さくて質素だけど、密度の高い家。お金が無くても豊かな暮らしを紡げるような木の家。陽だまりいっぱいの家。
僕が選んで、伐って、挽いた木々たちを使う。それが誰かの「命の箱」になるって、僕も幸せだし、お金を出してそれを建てる人たちだって幸せになる。
家を建てる土地のまん前の田んぼを借りることにした。畑も借りる。できれば、自分の食べるもののほとんどを自分で作りたいと思う。流行や派手さとは無縁の、カッコよさとは正反対の、土とおが屑にまみれ、小汚い作業着と、炭の粉で真っ黒の顔。見た目は悪いけど、僕は誇り高く生きる。少なくとも自分が使うエネルギーを自分で獲る。
山の恵みを戴いて暮らすんだ。もちろん、電気は普通に使う。ネットや音楽の無い生活は考えられないから。水道は、できれば井戸を掘りたい。予定地の隅には、昔使っていた井戸の跡がある。掘ってみる価値はある。
ガスは最低限でいいから、カセットコンロで済ませたら理想的だ。仕事柄、煙道(くど)や竈(かまど)は自分で作れるし、パンとピザを焼く釜も作ればいい。いつも炭火が熾きている生活だから、それを種火にして、給湯と床暖房は今使っているボイラーで。メインの暖房も、今使っている薪ストーブだ。どちらの燃料も、自分で調達できる。山の時間に身を委ねて、自分たちのために食事を作り、火を熾す。それが日々の仕事。生きることが仕事であるような暮らしをしたいんだ。
僕はマクロビやパーマカルチャを否定はしないけど、傾倒もしない。基準は自分にあるし、自分の評価は自分でする。お天道様と山の神がしっかりと僕の生き方を見ている。それを胸に、堂々と生きてゆくと決めている。
そして大切なことは、それを僕が日々の暮らしで当たり前にすること。特別な能力も、資本もいらない。強くて柔軟なココロと丈夫なカラダを作ってゆけば、誰でもできる本当に豊かな暮らしなんだということの前例になればいい。地域の仕事もこなし、自分の食いぶちも確保し、質素だけれど笑顔で、自分の愛する人や環境を守ってゆければ、
それだけでいいんだ。それを続けるためには、稼ぎだって必要。そこもキッチリとやってゆきたい。
ヨソモノとして、地域のために貢献できることは、その地域の「夢」になることだそうだ。こんな僕が、誰かの夢や希望になれるとは思っていないけれど、前例として「あれならやれそうだ」くらいの身近な目標にはなれるかもしれない。
仕事と稼ぎの両立と僕の生き方、地域での暮らし方は全てシンクロしながら動き続けるから。地に足着けて、頑張ります。
僕など、本当にまだまだだ。偉そうな事を書いていても、実際は全然ダメだ。
もっと間伐したいし、もっとたくさん炭をやきたいし、山に炭も置きたいし、たくさんの木を挽いてみたい。
口先ばかりで、大した事をしていないのが現状である。
山で身体を使って働き、その素晴らしさを、僕自身の表情で伝えていきたいし、もっともっと仲間を増やしたい。
今、僕の頭の中にあるのは雪に覆われた原野だ。星野道夫さんの写真が頭から離れない。
この星を、子孫たちのために何とかしなければ。
いろいろな情報が飛び交い、何が正しいのかわからなくなる。
いろいろな人が無責任に口を挟み、どこへ行ったらいいのかわからなくなる。
誰もが、自信たっぷりなのに、いざとなれば無責任に逃げる。
そんな回りの流れに抗ってでも、僕は自分の考えている事をやり遂げたいのだ。
誰かの評価を気にしながら動き回る事だけはやめよう。
何年もかかるし、費用も必要になる。はしゃがず、真っ当に、目立たず、しかし確実に。
我が師杉浦銀治の言葉に「捨石になれ」とある。
銀治先生の師である岸本先生の言葉には、「功を譲れ」とある。
僕にはまだまだ先のようだ。そうなれるように意識はしているし、そうなれる自信もある。
そんな男に憧れているが、今の僕は、実際に目の当たりにする下品な大人たちに対して、真っ向からぶつかってしまう。
「功を譲る」どころか、人の手柄を横取りしておいて、自分だけを売り込んで、下品に高笑いする奴の姿に、腹を立てているのが事実である。
もっと男を磨き、下品で図々しい奴らに功を譲れるようになるのだろうか?
自然に関わる仕事をしていて、強く感じるのがここだ。何のためにこの仕事をしているのか?
自分自身に対して、それを問い続けていないと、大変な事になる。
僕の望みは、名も無き水守人だ。どこにでもいる平凡な山守人だ。
山の先輩たちの知恵を学び、それを自分のモノとして腹に落とし、それを誰かに伝える事。
自分が何かをできる事が偉いのではない。他人より優れているからと、自慢したところで子孫には続いていかない。愚直に自分の仕事をやり遂げる事を、何事もないようにこなす山男たち。
そんな当たり前の山男になりたくて、今日も明日も、僕はもがき続けるんだ。
僕は以前から「流域思想」が大切だと思っている。一本の川は、命を育み、モノを運び、あらゆるものを繋ぐ。
流域は運命共同体である。
上流で行われる行為が、下流に深刻な影響を及ぼす。特に、人と人のつながりが絡めばそれは顕著になる。
僕は名古屋生まれの名古屋育ちだ。木曽川の水で育った普通の都市住民だった。実家は庄内川のすぐ近く、濃尾平野で、ほぼゼロメートル地帯だ。でも今の僕は、矢作川の上流に身を置き、山を何とかしたいという想いで毎日自分のできる範囲のことをしているつもりだ。何故矢作川なのか?その答えは明確に出ない。
大好きだったSEの仕事から離れ、山に生涯を捧げようと思ったのは13年前だ。誰にも相談せず、自分だけで決めた。たとえ誰かに相談していても、結果は同じだったはずだ。言葉は悪いが、山に関われて、自分自身の存在意義を自分の感性で確認できる場所なら木曽川でも、長良川でも良かった。それでも縁 あって矢作川に関わらせてもらっている。今ではすっかり、自分を矢作川流域人だと思っている。それは、この矢作川を取り巻く環境(山だったり、人だった り)が、僕にピッタリ合っているということ。僕の原点である、段戸裏谷も矢作川源流のひとつだ。
この10年で、大きく変わった部分、変わらなければならないのに、変われない部分、入れ替わり立ち替わりやってくる人々。都市から押し寄せてくる「田舎志向」の人たちと、山村で地に足着けて朗らかに生きている人たち。
僕は僕の立ち位置で、自分のできることを、自分のペースでやり続けるだけだ。
誰かの評価など、我関せず。
僕には、この背中で伝えなければならないことがある。それだけは自覚しているつもりだ。
自分の立ち位置と居場所は、自分で見つけて、そこに自信を持って居座るしかないんだ。
無愛想でも、礼儀は尽くす。どんな試練でも楽しんでしまえる器。そんな当たり前のオトコになりたいと思う。
僕の目標は、名も無き山守・水守だ。頑固で楽天的な炭やき爺なんだ。
僕 の喜びは、山仕事して、炭やいて、星空の下でその炭火を眺めること。自分で伐った木で風呂を沸かしてゆったりと入ること。自分で伐った木を薪ストーブで焚いて大切な人を暖めること。仲間たちと物々交換した野菜を食べること。僕の目標は、金持ちになることや、有名になることからは縁を切り、山の神の懐に 抱かれているのを感じながら静かに暮らしてゆくこと。僕の望みは、形あるものに執着せず、毎日消えてゆくものを大切にするような生き方がしたい。ということ。
久しぶりに、ネイティブアメリカンの本を読んだ。そこに書いてあった北山耕平さんの言葉だ。
「モンゴロイドの末裔として、われわれが便利な暮らしを追いかけるなかでなにを失ったのか?」
脳味噌に直接響くような問いかけだ。
森羅万象に命があり、石ころ一つにも神が宿ると考えるネイティブの思想に通じる。
大地に心があるという発想・・・自分以外の全てに感謝する心・・・それはマタギの魂にも見て取れる。
母なる大地という事なのだろう。自分は大地から生まれてきたという自覚みたいなものか。この星が無ければ、自分たちは存在しないのに、自然に存在する物質全てによって生かされている(僕たちは地球に生かされている)だけなのに、母なる地球と父なる宇宙(そら)からの、自然の恵みだけが(地球に外から入ってくるエネルギーは太陽の光だけであり、それ以外は全て地球上で輪廻循環している)、僕たちを生かしてくれているのに、今の僕たちは食物連鎖の中に入る事すらできない。僕たちがこの 星に対してできる事は、今までしてきた事を反省し、少しでもこの星にダメージを与えないようにする事だ。地球が自ら再生していく様を静かに見守り、決して邪魔をしない事だ。
僕たち人間は、消費する事しかできない。米や野菜を作るなどと言っても、結局この星の恵みを頂いているに過ぎないのだ。
毎日山で過ごす僕が、自然の中で、より鮮明に感じる、何とも言えない居場所の無さがそれだ。「自然の中の不自然」とでも言おうか。どんなに憧れても、僕たちは生態系ピラミッドの中に入れ ないんだ。自らの肉体や生命を、他の命が生きる為に捧げる事をしなくなった僕たち人間は、生態系ピラミッドに入る事を許されないのだ。その疎外感はきっと、環境を 壊して自分たちの発展しか考えてこなかった僕たちに対する無言のメッセージなんだ。人間だけが突出して発達しているのではない。地球上で人間だけが孤立して いるのだ。
地球を含めた宇宙に、僕たち人間が「私はあなたのおかげで存在しています」と祈りと感謝を捧げても、宇宙(そら)は「それがどうした?その事実は私に対し、なんの義務感も生じさせない」と、冷たく言い放つだろう。
そもそも、「生態系」などと、人間が勝手に考えたしくみだ。山の生き物たち(大地も草も昆虫も鳥も・・・)は、自らのDNAに深く刻み込まれた、それぞれ本来の姿を全うする事だけを生きる目標にしている。「生きること、死ぬこと」が仕事なんだ。死してなお、食物連鎖にその身を捧げる。自分が生きてきたその場所に命を繋ぐ。
人間も森羅万象の一部ならば、本来あるべき姿を全うする方法を考えたい。
不必要なモノに溢れた贅沢で便利な暮らしが「豊かな暮らし」なのか?
本当に「豊かな暮らし」とは何なのか?勝っただの、負けただのつまらない争いと欲から身を引き、僕は名も無き山守・水守として暮らしてゆきたいんだ。金持ちにならなくても、有名にならなくても、人から褒められなくてもいい。僕は小さなことを積み重ねる方法しか知らない、このどこにでもいる普通の男にできることは知れている。けれど、僕はこの、小さな集落で死んでゆくと決めた。小さな洞の主として脈々と命を繋いでゆこうと決めたんだ。
こうやって答えの出ない問いかけを、続けてゆこうと思う。