食品ロスを減らす。地球に優しい取り組み・・・
規格外品をスーパーよりも安く販売するという宣伝。
形や大きさが不揃いで、規格外となり、廃棄される運命だった野菜たちを救います。味は変わりません!
生産者(農家)・消費者・地球にとって良い事をしてますっ!
って・・・
物凄い嫌悪感。その農家さんからは安く(下手すればただで)仕入れてるんですよね?規格品じゃないから?廃棄されるくらいなら、安いけど買ってやる?
品質には問題ないのなら、規格品と同等の値段で買い取って、規格品と同じ価格で売ればいい。形が揃っていないので、流通コストが上がるんなら、それも価格に乗せるか、社会貢献を謳う企業が払えばいい。
規格外品が一つ、安く買い叩かれれて市場へ回れば、本来売れるはずだった野菜が買われない。その農家さんで規格品が一つ売れ残るのと同じ。
地球にやさしい事業を謳うなら、社会貢献がコンセプトなら、農家さんへは通常価格で払う事が本来ではないのか?野菜なら、鮮度と味で値が決まるはずだ。
心ある消費者なら、品質が同じならば、規格外品でも普通に買うよ。
売り手の理念が、安く売る(買う)事が正義だと、一次産業者は疲弊するだけ。
本来の価格は、一次産業者が利益を乗せた価格で売り、それを足し算で市場へ出す事が筋。
市場の相場から引き算で降りてくる価格では、一次産業者は赤字になる。消費者は高くなるけど、それが正常な価格だと思う。
農家を守るのなら、正当な対価(規格外品でも、作る手間、経費は変わらない)で買えよ。本当に美味しい野菜だと思うなら、企業努力で規格外品を高く販売できるような仕事をして欲しい。
いかにも「いい事してますっ!」ってアピールが気持ち悪い。
一次産業が廃れたら、この国は亡びる。
これ、木材でも同じ。
目が通っていて、大工さんが仕事するのに支障の無い状態ならば、山側で利益の出る(と言っても、収入としては大卒初任給以下だけど)値段を決めて、それを施主が普通に負担するような仕組み。
これは、国がテコ入れしないと無理だと思う。僕たち山側の現場は、いい製品を作る事に集中したい。
世の中「安い」が正義って、やはりおかしい。「正当な対価」というものがあるはず。
でもね、自分の財布からお金を出す時は、安い方がいいんだよね。矛盾してるなあって思うけど・・・
木材市場ならば、市場で売れた時点で一次出荷者(山主)にプラスになるような補助を林野庁が出して、買い方(市場)から先は、今と同じ買値(もちろん、木の状態でランクも値も変わる)。そこから利益を乗せてゆけばいいのに。そうすれば、消費者へ渡る値段も今と変わらない。一次産業者にはプラスの利益が入ると思うんだけどなあ。
ガイア理論
先日書いた事の補足。
地球を生き物に例えるのはおかしいと書いた。しかし僕は地球を母だと言う。
矛盾しているかもしれないけど、どちらも僕の中では正解なんだ。
もう少しちゃんと説明しようと思う。
地球が怒っているとか、泣いているとか、笑顔が見たいなどという、薄っぺらい環境活動家たちの言葉や、上っ面のSDGsや脱炭素なんかには興味が無い。
ラブロックの「ガイア理論」という壮大な、しかし科学的、生物学的に高いレベルでまとまった理論がある。
ガイア理論を語ると長くなってしまうけれど、僕が知る限りの内容は、地球全体が一つの生命体であるという考え。
大気の状態が30億年も変わらないのは、地球表面と地中にいる生き物たちの営みだけでは説明がつかない。地球そのものが、大気成分を一定に保つよう、補正しているという理論。
「火」「風」「土」「水」の4神のうち「風=大気」だ。
思考を持った生き物では無く、そう、植物たちのように、細胞の奥深い所で「生きる事が仕事」と動き続けるようなものかな。「土=母なる地球」「火=父なる太陽」。この星の環境を今の状態に保っているのは、神の仕業だと、いにしえの先人たちは信じていた。
思考は持っていないけど、ダイナミックに動き続け、人類が現れる遥か前から営みを続けている。
それがラブロックの唱える「ガイア理論」だと理解している。
管理者は存在していない。それぞれ(地球を含めて、地球上で存在している生き物全て)が関係しあい、影響を与えあって、混ざりあって、この星を形成している。
ラブロックは言う。「人類が地球を救うなんて、到底無理な話。地球の30億年以上の営みを、人間が管理できるなんて考えは滑稽である」と。
この言葉に深くシンクロした。
地球の全ての存在が関わり合って、地球の自己調節機能という一つの目標に協力しあう姿。
つまり、人間がコントロールできるようなものではなく、環境全てでこの星を労わってゆく事。
事象としては、科学的、物理的に説明がつく。決して、スピリチュアルな話ではないけれど、これを自らの魂に落とし込むには、生き物として謙虚な立ち位置と、豊かな感性が必要だ。
産業革命以降、本来なら地中に埋まっているままのはずだった化石燃料を使いすぎている事実を受け止め、減らしてゆく努力も必要だと思う。これは個人レベルで、電気やエネルギーの無駄使いを少なくする事だ。
地球温暖化は、データが示しているから事実だ。だけど、それが人間の営みが原因だとは、どうしても思えない。温暖化に貢献しているような、エネルギーの無駄使いはあるだろうけれど、このわずかな気温の変化は、地球の小さなうねりみたいなものだと思うんだ。
今宵の月を眺めていたらふと、宇宙から見た地球を想像していた。大宇宙にぽっかりと浮かんで、堂々と回転している母なる地球。
そんな時はいつも、ガイア理論を思い浮かべる。
こんな戯言を考えながら、木こり仕事をしています。
とりとめの無い話ですみません。
偏屈者の戯言
たまたま見ていたフェイスブックで、素人がいかにもいい事をしている顔で「日本の山を造り、手入れする」だと。山を造るなんて、人間の能力ではできないです。せめて、植えてしまった木を伐ったり、天然の木を少し頂いたりすることくらい。災害が起こると、上流の山を守りましょうと、一時の流行みたいな声が上がる。それを自分の使命のような悲壮な顔つきで語る人が出てくる。実は、20年前の僕がそうだった。頭でっかちで、能書きばかり。能力の伴っていない理想論ばかり。
今は、自分の能力をわかっているつもりだし、発する言葉も減った。その分、黙って仕事を進めているつもりだ。
僕の中で「山守・水守」でありたい気持は日々強く、大きくなっている。山の懐で生き、木を伐り、挽き、山を知るほど、それ(机上の理想論)がどれだけ自惚れた考えかを思い知る。
水源地に自分の山を持ったことで、現実が重くのしかかる。そんな簡単なことではないんだ。
人工林の間伐が遅れているのは事実だけど、それが災害の原因では無いよ。小さな一因ではあるけど。
人間ごときの仕業で、大自然が変化するなんてほとんど無いと思う。何故なら、人間はこの地球の生態系からは外れている。何も生産できず、消費することしかできない。
異論も反論もあるでしょうけど、実際に山で暮らし、山の恵みで生かされている僕の声です。山には勝てない。
時々起こる災害も、こうやって何億年もリセットし続けてきた。
地球が怒っているとか、大地が泣いているとか、スマホの画面を見てるだけで、現場に立たない人が言っても、何の説得力も無い。山は本当に怖いです。
僕がこんなに山を愛し、大切に思っていても、山や木々は僕のことなど関係ない。大地の力である重力と、太陽エネルギーと、空気と、水。たったそれだけのことしか関係しない。
大自然は冷たいものです。あっけなく、そこにいる動物の命を奪う。そこにあるのは、その真実だけなんだ。それが自然の真理。
夕べ、遥かなる大宇宙を見ながら、自分のちっぽけさを痛いほど感じたんだ。
「地球の笑顔が見たい」って、反吐が出るような言葉。地球は笑ったりしねえよ。単に、物理的、科学的事象の連続しかない。
そんなことを思いつつ、山の神には自分と自分の周りの人たちの幸せを祈願する。報道で知る、亡くなられた方たちは気の毒だけれど、その人たちを僕が救える訳がない。僕にできるのは、自分がやりたいことを、自分の限界までやり続けるだけだ。人知れず小さなことを積み重ねるだけ。
雨と風が止み、日が差す。太陽は、地球上のことなど関係なく、ただそこで燃えているだけ。
その事実を深く腹に落としつつ、やはり母なる大地と父なる太陽だと思う。ネイティブアメリカンの考えに深く共振共鳴する。
名も無き山の頂にはそれぞれ神が棲む。一つの森は、それ自体が生命体みたいだと思う。
矛盾しているようだけど、その二つの考えが妙に、バランスよく頭の中を占領している。
災害が起こるたびに、こんなことを考えてしまう偏屈者です。
夏至の日に
今日は夏至。この日だけは早起きして、裏山の稜線から日が昇る瞬間を見る。
お宮さんにお参りして、夜明けを味わう。
いろんな鳥が鳴いてて、すごく豊かな時間。
僕が住む集落には、江戸時代から続く習慣があって、夏至の日は「中祓い(ちゅうばらい)」。
6月30日(一年の折り返し)には「大祓い(おおばらい)」がある。
「中祓い」は、農作物を育ててくれる源である、太陽に感謝する日。
「大祓い」は、田植えも終わり、稲も順調に育っていて、一年を半分無事に過ごした事への感謝と、これからの半年を無事に過ごせるよう祈る。
集落では、「大祓い」だけ行う事にして、来週の土曜日夜、持ち寄りでお宮さんで集まる事になっている。
山暮らしをして、一次産業に従事するようになって益々、「父なる太陽」に対する感謝は深まる。「母なる地球」に対する愛おしさは大きくなる。
なので、今日は ”一人中祓い” 。
午前中はユニックで工場に行き、一仕事。その後、現場下見を2箇所。帰ってから少し草刈り。
午後は夏至の太陽の光を浴びながら、休んだ。リクライニングチェアを出して、上半身裸で日光浴(僕の場合は光合成)。夜明けからずっと一日太陽を追いかける。途中、2回木酢液たっぷりの風呂に入って、また日光浴。夕方になって、メシ食って、日が沈む頃に2度目のお宮さん。毎年、このタイミングでお宮さんに来てる。当たり前なんだけど、同じ場所に座れば、全く同じ場所(剛二さんのヒノキ山)に沈む。去年も一昨年も同じアングルで撮った写真は、狛犬越しの夏至の太陽。
木々の間の光がゆっくりと降りてゆく。素敵だ。
思わず、太陽に感謝の一礼をした。
一次産業に関わる者として、全ての起源が「父なる太陽」だから。感謝せずにいられない。
いつも考えているんだけど、「日が昇る・沈む」って、実は太陽は動いていなくて、この地球が回転しているからそう見える。
太陽や月が沈んでゆくように見えるあのゆっくりと、しかし何よりも確かなスピードは、この母なる地球が46億年変わらず、24時間で一回ずつ回転しているそのスピードなんだ。
堂々と回転しているこの母なる大地の存在は、考えれば考えるほど、神秘的だ。
僕たちは、太陽系第三惑星の表面に、重力で引っ張られてちょこんとくっついているだけ。ホントに儚く、ちっぽけな存在。
4節気 夏至・秋分・冬至・春分 は特別な日。
秋分は本業である木こり仕事が始まる日。春分は終わる日(秋分から春分までが伐り旬)そして、その半年に6~7回訪れる新月期(下弦~新月までの一週間)で実際に木を伐る。太陽と地球の位置関係、月と地球の位置関係は、僕にとってカレンダーよりも、時計よりも大事な宇宙のリズム。
だからこそ、僕は地に足を付け、自分勝手に生きてゆこうと思うのです。
自分を信じ、汗を流して働こう
随分前に観た映画のセリフ。ネイティブアメリカンの生き方を知った人が呟いてた言葉。すごく共感できた。
かすかに聞こえる声は誰の声だろう?
呼びかけるのは誰だ?
心に響く声は何だろう?
私をどこかに導く?
新たな始まりだ。 何かが始まる。
自然の恵みにあふれる土地。
ここは実りの大地。
自分を信じ、汗を流して働こう。
アースデイ?
昨日はアースデイ(だったそうだ)。正直、ピンと来ない。
母なる大地を、山を相手にしている僕には、毎日がアースデイだからだ。今日も夕方まで工場で仕事して、家に帰ってから薪ボイラー焚いてる。玄関を出て目に入る景色は、落葉広葉樹の里山。この時期、黄緑色の新緑で溢れ返る。
これこそ、僕にとってのアースデイ。
実はアースデイに積極的に動く人、苦手なタイプが多い。環境とか、自然とか、地球の話を上から言ってくる。正義の味方気どり。自分たちの方が上で「守ってやる」と自惚れた考え。どう考えても、僕たちは母なる地球に生かされている。守られているのは、こちらの方なのに。勘違いも甚だしい。
山で暮らして、木を伐り、それを炭にしたり、挽いたりしている自分にとって、最も大切なのは地球であることは間違いない。むしろ、誰よりもこの星を大切に思っているし、実際に行動もしているつもり。
ただ、それを人に押し付けたり、導いたりすることが嫌なんだ。こうして発信している事も、「自分はこう考え、このように行動している」を書いているだけ。もちろん、承認欲求はあるけど、自分の考えを人に押し付けるのは違う。
昔から、自然農、ヴィーガン、マクロビ、パーマカルチャを全面に、満面の笑顔で近寄ってくる奴らに違和感持ち続けている(全く違和感を感じない、素晴らしい人も、稀にいるけど)。
僕はマックも食いたいし、ケンタも好きだ。夜中にどうしてもカップヌードルが食いたくなる衝動は抑えず、食います。田んぼにも、除草剤とカメムシ防除(最低限の農薬)入れます。土壌改良剤も入れる。化学肥料も入れる(化学肥料については、慣行平均の半分以下にするけど)。
自然農よりも、慣行農法を支持する。トラクタも、田植え機も、コンバインも使う。
毎日車に乗るし、服は化学繊維が多い。スマホは電源入れっぱなし、家ではネットも繋ぎっぱなし。山仕事で、チェンソーはガソリン、ユニックは軽油、製材は200Vの動力電源、炭やきの時も、薪割り機はガソリン焚くし、焚き付けには灯油を染み込ませた鋸粉を使うし、夜の作業は電気も灯す。今更、この便利なアイテムを手放すつもりはない。
もちろん、無駄なエネルギーは使わないように心がけるし、電気もこまめに消すタイプ。
以前、NPOの手伝いでイベントのスタッフなどをした事もあるけど、そこで僕がコンビニ弁当を食っていたら、犯罪者扱いされた。そいつは自然素材の服を身にまとい、食い物に拘り過ぎてガリガリに痩せていた。自給自足を声高に説いていた。
エネルギー問題、教育問題など、誰でも知っているような事を、いかにも意識高い体(てい)で演説していた。僕は薄っぺらい正義感しか感じなかった。
そして、そいつは満足げに、スマホを手にSNSに投稿し、車で帰って行った。あれだけ自給自足を謳っていた奴が、さっそうとガソリンを焚いて去っていった。手を振りながら。
スタッフとして後片付けしながら、もうこんな仕事はしないと決めた。それもアースデイ関連の仕事だった。
お祭りやイベントなら、それでいいけど、本当にこの星の未来を憂うならば、日々の暮らしの中で少しずつ、積み上げてゆくものだし、それは誰かに自慢する事でもなければ、秘密にする事でもない。
それ以来、独りでひっそりと自分の仕事をする事にしたんだ。そのNPOの代表と副代表は、補助金を獲る事だけが目的の、人として信頼できない奴らだったので尚更だ。
大勢の人が集まるような会場で、上っ面の仲良しグループで群れ、無駄な時間を過ごすくらいなら、月の位置を意識し、山河の呼吸を肌で感じながら孤高を貫きたい。
還暦過ぎの山仕事人は、ジャンクフードも食いつつ、今日も偏屈に磨きをかけつつ、独りで働くのです。
日々、地球に対する感謝は深まるばかり。
宇宙に対する畏敬の念は大きくなるばかり。
僕は、こんな僕が普通だと、強く確信しているんだ。
昨夜はこと座流星群の極大日。夜中の北東の宇宙(そら)にこと座が昇ってくる。そう、夏の大三角だ。ヴェガ・アルタイル・デネヴ。
毎日を時間に追われて過ごしている間に、星は巡って夏の星座に移っていたんだ。
母なる大地と父なる宇宙(そら)。結局、これが全てなんだ。
山の暮らしは真っ暗。自分の足元も見えないくらいの暗闇で見上げる星空。それはまるで、エメラルド色の天井みたい。
星を数えていると、自分のちっぽけさが骨身に染みる。
けれど、そんな時間がたまらなく愛おしい。
フリースを羽織り、焚き火をしながら暖かいコーヒーを飲みつつ、流星群を待ちます。たとえ、一個も見られなくてもかまわない。
そんな時間を大切にしたいと思う気持ちを、大切にしたいから。
望み
ネイティブの言葉を紐解いていくと、生きとし生けるもの全ては対等であり、全ての生き物は地球からの恩恵で生かされているとある。僕も心からそう思う。人間 だけがこの星の住人ではない。むしろ、人間以外の生き物の方が多いのだ。そもそも、人間は食物連鎖に組み込まれていない。人間は消費するだけだ。生産して いるように見えても、それは地球の恵みを頂いているに過ぎない。ひたすら、他の種を漁り、無駄な殺戮を繰り返し、地球を痛めつけ、自分たちだけが快楽に酔 いしれている。快楽のために他の命を奪うのは、人間だけだとされる。
46 憶年の間、地球という惑星が育んできた資源を、あっと言う間に使い果たしてしまった。自らの身体を他の生物に捧げない動物は人間だけだ。生態系ピラミッド からも外れている。人間の自惚れが、自分本来の居場所すら奪ってしまったことを考え直すべきだ。人間が動物だった頃、地球は穏やかでとても豊かだったはずだ。
人工林問題。 これは国としての大失敗だ。大造林政策と呼ばれる昭和の大失態。しかし、実際に山に木を植えたのは、里山に暮らす平凡な山の衆であった。孫に少しでも財産を残そうと、歩いて何日もかかる山奥にまで植林したのだ。そんな祖先の偉業を悪く言えない。
植林するときは、間引きを前提として多く植える。その間引きをしてこなかった世代の責任なのだ。高度成長と呼ばれる幻を必死で追いかけるうちに、一時の快楽に惑わされているうちに、見向きもされない山の木は物も言わずにひしめき合った状態で成長を続けた。ただ、その世代の人たち(僕の親世代)が、今のこのニッポンを作ってくれた。インフラも制度もそうだ。みな、子孫のために必死で働いていた。これも偉業であり、悪く言う事はできない。
毎年患者が増えている花粉症は、人間が作り出した悪魔だと思う。適正な林分を保てず、末期的な状況が近づいている人工林では、木々がその危機感から子孫を多く残そうと、異常な量の花粉を作り出す。天然林であれば必要の無い数の花粉が宙を舞う。人間の愚行は、自分たちの健康被害にまで及んでしまっている。実際には、排気ガスや黄砂などが花粉を破壊し、細かくなってしまった花粉の残骸が人の粘膜を通過して、アレルギーを起こすそうだ。花粉そのものの大きさでは粘膜を通らないらしい。実際、僕も含めて山の衆は花粉症とは縁遠い。
結局、自分の首を自分で締めるような行いをしている人間たちだけれど、僕はまだ間に合うと思う。いまから始めれば、きっと間に合う。
「地球は子孫から借りた もの」という言葉を信じ、自分たちにできる小さな事から始めて、微々たる力を結集していけば、何世代か後の子孫たちは救われると思う。
僕は毎日山で暮らしている。都会からやってきたIターン者だ。だからこそ、より敏感にわかる。「自然の中の不自然」
人工林の中に入った時の不気味さがそれだ。コンクリートで囲まれた都会では感じられないくらいの薄気味悪い変化を感じる。人間の驕りが骨身に沁みてくる。植えてしまった木は大切にしなければ。一旦手を入れた森は、責任を持って手を入れ続けなければ。
それが難しいのなら間伐して、植林した木を半分に減らすことだ。当地の人工林林分は、樹間距離が3.6mくらいが良いとされる(相対幹距比SRが、樹高20mに対して18くらい)。1haで3000本植林されているので、樹幹距離は1.8m(1間)になる。すなわち、段階的に、木を半分まで減らす事が理想。本当の理想値はSR20だから、木が成長して、樹高が上がればそれに合わせて(樹高が30mになれば、樹幹距離は6mが理想)また間伐する。SR20とは、樹高に対して樹幹距離が20%という意味で、それくらいのゆったりした樹幹が、森林には必要。
もちろん、その森や地域、地方によって変わるし、人工林を表す指標は他にもあるけど。
林内を片付けたら、後は母なる地球に任せよう。広葉樹を植えたりしてはいけない。どこに、どんな植物が生えるのか?それは神の仕事だ。埋土種子と土着菌が太陽の光で活発に動く。そんなきっかけを与えたら、後は大人しく待つのだ。30年も待てば充分だろう。逆に、それが待てないのなら、森林環境の事を口にする のを止めるべきだ。森の時間は、僕たち人間の時計で計れるような時間ではない。森の時計は優しく、ゆっくりと進む。
自然とは、地球を含む宇宙そのものだ。母なる大地、父なる宇宙(そら)、滔々と流れを止めない子孫たる水。
そろそろ考え直さないと本当に取り返しがつかないところまで行ってしまう。
僕たちにできる事は小さな事だ。今更便利な生活を捨てる事はできない。現実的に、クルマや携帯電話、パソコンが無い生活は送れない。だが、昔の里山に暮らし た人々の知恵をもう一度学び、化石燃料に依存したエネルギー消費を少しづつ減らす努力は必要だと思う。山の恵みに感謝しつつ、エネルギーを使わ せてもらう。
近いうちに必ずやってくる、人口減少を発端とする右肩下がりの世の中。消費するためだけに生産するような愚かさから目覚めて、昔ながらの穏やかな生活に戻る こと。結局、それが一番上品でカッコイイ生き方なのだ。本当に豊かな暮らしとは、昔ながらの里山暮らしであると、僕は確信を持っている。
どんな種であろうと、自然をコントロールできる訳が無い。それなら、人間も動物の一種に過ぎないと、地球の恵みに感謝しつつ、質素に暮らす事が、何よりも大切な子孫の為に僕たちができる事なのではないだろうか。その暮らしの中で重要なのが「火」だ。薪や炭といった、「火の文化」を復活させることである。
「CO2固定」という、地球のための炭(燃やさない炭)と、「火の文化」をもう一度見直し、暖かくて癒される薪炭を復活させて暮らしを豊かにする炭(燃やす炭)の両方を、この地球の為に作り続けることが僕の生涯を賭けた仕事なんだ。
「カーボンニュートラル」って言葉、今ではCO2削減の代名詞のように言われているけど、そもそもの意味は、植物が光合成をして、大気中の「CO2」を吸収、「C(炭素)」として、自らの体内に貯める。それを燃焼させて出るCO2は、元々森林の大気中にあったCO2だから、トータルでCO2を増やしたことにはならない。ってこと。
光合成ができない動物たちは、光合成によって蓄えられた植物を摂取する事で、体内に「C」を取り込む。または、その「C」を取り込んだ動物を摂取する事で、栄養とする。
野菜を採る事は大切だけど、動物性タンパク質を採る事も必要。
活動家たちが机上で、パソコンやAIを使って声高に論じたとしても、それは結局能書きだ。
僕たちの存在は、それ以上でも、それ以下でもない。本来の姿で子孫に地球を返す事が、僕たちの目標であり、幸せであると思う。
それを目指し、ひたすらに黙って炭をやき、山を守り、水を守る。
名も無き緑の防人になる事。それが僕の望みだ。
宇宙(そら)を眺めながら、そう思う。
年度末だけど
年度末。いつもなら何かと忙しく、落ち着かない日々なんだろうけど、確定申告も先月終わらせて、平和な日々。
木こり仕事から夕方家に戻り、薪ボイラー焚きながらあれこれ想いを巡らす。
見上げると、すっかり、春の星座になりつつある。早い時間には冬のダイアモンドが大きく展開していて、今シーズンはそろそろ見納めだなあって思う。
考え事していたら1時間も焚火を眺めていた。
かけがえのない時間を大切に、儚く消えゆくものを愛おしみたい。
宇宙に想いを馳せつつ、現実を見つめる。
思うのは、毎日焚火できる幸福。焚いているのは全て、自分で伐った木。僕が命を奪った相手だ。せめて燃やす事で自分自身を納得させている。
僕に伐られた木々たちは、そんな事とは無関係に酸化と熱分解を繰り返している。木こりである僕は、木々たちを擬人化して「痛そう」とか「かわいそう」とは思わない。
僕が生きてゆくために伐らせてもらっている。よく、環境活動家が「山がかわいそう」とか、「木が泣いている」って表現をするけど、木々たち、山河はもっともっと崇高な存在。ニンゲンの所業など関係ない。「生きる事が仕事」である。僕は山は大きな生命体だと考えているけど、それにしたって、僕たちニンゲンのために存在している訳じゃない。「ありがたい」とは思うけど、「ありがとう」とは言わない。
ニンゲンの方がずっと下等な生き物だからだ。私欲にまみれた汚い存在。そもそも、ニンゲンなんて、生態系ピラミッドから弾かれた存在。
それは、自らの肉体を食物連鎖に捧げていないから。法律的な事もあるけど、火葬していることで、ニンゲンは消費するだけの愚かな存在に成り下がってる。
僕の個人的な見解だけど、土葬をやめた頃から、思い上がりと横柄さが現れてきたんじゃないかな。死んだら、その屍を微生物に捧げる事(土葬)で初めて、この星の環境に恩返しできると思うんだ。
それらをちゃんと考え、腹に落とす事をしなければ、この仕事は続けられない。多分、一生答えは出ないだろう。農業だってそうだ。育てた命を収穫して、糧にするのだ。一次産業とはそういう仕事なんだ。キレイ事や夢物語ではできない。現実に目の前の命を奪う仕事なんだ。
せめて、僕が相手の命を絶っているという事実を受け入れようと思っている。
木を生き物として扱おうと決めている。それもあって、炭の原木も、製材の原木も、自分で伐って運ぶというスタイルを貫いている。大したことではなくて、普通ではないかもしれないけれど、僕にとっては当たり前だと思っている。
派手な活躍を自慢するより、日々の質素な生き方を密かに喜びたい。名も無き山の頂に棲む神に見守られて、誰にも知られなくとも、誇り高き炭やき人でありたい。
有名になる事や、金持ちになる事からは離れて、名も無き山守、水守として、ソローが描いた老人のように枯れてゆきたい。もちろん、金は必要だし、いくらあってもいいんだけど、有り過ぎても結局道具を買ってしまうだけ。
お金を直接もらうより、正当な対価が頂ける仕事が欲しい。儲けるより、いい仕事がしたいという欲求の方が強い。
などと、焚火しながら思い巡らせる。偏屈なおっさんである。
炭
消えゆくモノを大切にする。掴めないモノを掴みに行く。儚さの芯にある強さ。
それをあえて、主張する事なく、秘めているのが「炭」なんじゃないかなあ。
と思う。

雨の日は
朝から雨で、予定が延びてしまった。午前中はのんびりして、午後は工場に来てる。
ユニックリモコンのアンテナ修理と、こんな日だから、じっくり目立て。
刃を新しくした241だけど、新品の刃は切れない。僕はリールじゃなくて、一本ずつ買うので、箱に入って届く。箱の中では、刃と刃が当たっていてもおかしくないし、新品の刃より、自分で目立てした刃の方がよく切れる。
昔、山仕事の師匠から「なあ、お前も山師なんだでな。間違っても、目立てした刃が新品みたいに切れるなんて言うなよ」と。新品の刃は、メーカー(オレゴンの91VXL)の工場でとりあえず形を作ってきているだけ。
上刃の角度も僕の使い方では鋭角過ぎる。僕は広葉樹も伐るから、上刃は25度。デプスも浅め。上刃の角度は実はそれほど重要では無いけど、揃ってた方が美しいので、角度ゲージをバーに付ける。ヤスリホルダーは使わず、フリーハンドで。明るくして、老眼鏡かけて、何故かいつも、目立ての時はソニー・クラークを聴きながら。
刃を買うときは、3本セットで買っているので、あと新品が2本。これも同じように目立てし直す。チェンソーに付けた状態で目立てするので、目立てが終わったら試し切りする。新品のソーチェンは必ず伸びるので、こうしておくと、次に現場ですぐに使えるようになる。
雨の日はこんな過ごし方。

