束の間の休日に

束の間の休息を味わった数日。また明日からは現場だ。

そんな、何もしないと決めた日の夕暮れ。太陽が西の稜線に沈む。

実は太陽が沈むのではない。太陽は太陽系の恒星なので動かない。動いているのはこの地球だ。母なる地球は、何十億年も変わらないリズムで回転している。この世で最も崇高で、神秘的な事はこの星の自転だと思うんだ。自転によって、重力や時間の概念が生まれ、そもそも自転していることでこの星の環境は現在の形になり、それに適応した全ての生き物が共存している。

あの、太陽が沈む時のスピードは、この地球がこの無限に拡がる大宇宙の中にぽっかりと浮かんでいて、堂々と回転しているそのスピードなのだ。

その地球の表面にちょこんとへばりついている僕たち。その様を宇宙から眺めるように想像してみる。すると、足元は地の果てまで繋がっている。この大きな球体は、実は全て同じ面であり、神羅万象全てが繋がっているんだ。

久しぶりに時間ができると、ついそんな事を考えてしまう。名も無き山の懐で、山に抱かれるように暮らしていると、山河の圧倒的な生命感、大地の絶対的な存在感を強く感じるんだ。それらは神秘的な生態系の営みを否応なしに意識させる。

師の教え

いろいろな情報が飛び交い、何が正しいのかわからなくなる。

いろいろな人が無責任に口を挟み、どこへ行ったらいいのかわからなくなる。

誰もが、自信たっぷりなのに、いざとなれば無責任に逃げる。

そんな回りの流れに抗ってでも、僕は自分の考えている事をやり遂げたい。

誰かの評価を気にしながら動き回る事だけはしないと決めている。

僕が行きたい場所に辿り着くには時間がかかるし、稼ぎも必要になる。

はしゃがず、真っ当に、目立たず、少しずつ、しかし確実に。

我が師杉浦銀治は「捨石になれ」と言う。

銀治先生の師である岸本先生の言葉には、「功を譲れ」とある。

僕にはまだまだ先のようだ。そうなれるように意識はしているし、そんな男に憧れているけれど、今の僕は、目の当たりにする下品な人たちと真っ向からぶつかってしまう。人の手柄を横取りしておいて、自分だけを売り込んで、下品に高笑いする奴の姿に、腹を立てている。

もっと自分を磨き、大きな男になって、奴らに功を譲れるようになるのだろうか?

僕の望みは、名も無き水守人だ。どこにでもいる山守人だ。

山の先輩たちの知恵を学び、それを自分のモノとして腹に落とし、身体に刻み込み、仕事を手で考えられるようになれたら、それを誰かに伝える事。

自分が何かできる事が偉いのではない。他人より優れているからと、自慢したところで子孫には続いていかない。愚直に自分の仕事をやり遂げる事。徹底的な自己評価を繰り返し、ただひらすらに仕事をこなす山男たち。

そんな当たり前の山男になりたくて、今日も明日ももがき続ける。

こんな日

今日は雨の予報だったし、夏の疲れもあって、一日家にいた。誰とも会ってないし、誰とも話してない。

こんな日もあっていい。米も野菜もあるから、お金も使っていないけれど、電気やら水道やら、生きてゆくための経費はかかる。最低限の暮らしをするための金、固定資産税、車の車検など。黙っていても金はかかる。

それを稼ぐことは、最優先事項だ。稼ぎだから、多少不本意なことでも、黙ってやる。僕の場合、独り親方だし、組織に属していないから、不本意ながらやる稼ぎというのは、とても少ない。

内山節さんや、渋澤寿一さんの言われる「稼ぎと仕事」

内山さんは「自由と自在」という言葉にも置き換える。
「自由」はお金で買える。「稼ぎ」があれば、「自由」は手に入る。
「自在」は、自分自身の存在を自分で成し遂げる事。志を持った「仕事」の達成感で味わえる。

渋澤さんは「稼ぎと仕事、両方できて一人前」と言われる。

ホントに、そのとうり。僕が考える「稼ぎ」とは、文字どうり、日々生きてゆくための外貨を稼ぐこと。

「仕事」とは、お金にはならなくても、自分がやりたいと思うことを黙々とこなすこと。例えば、誰も見ていないときに、道の草を刈ったり、お宮さんの掃除をしたり。「仕事」のような「稼ぎ」もある。志を持って行動したことで、報酬がある場合もあるから。

だから、今日は自分の「仕事」に精を出した。家の掃除、書類整理、雨が降ってきたから読書。

金自分のことも満足にできないやつが、世直しとか人助けなんて言っても、薄っぺらいだけ。

雨だけど、宇宙(そら)に想いを馳せ

離れているけど、あの母なる森に魂を放ち

まだ見ぬ自分の未来の姿にエールを送る

たまには、独りで自分に向き合うのも必要だと思うんだ。

今はまだ

夢の途中。子供のころからあこがれていた生き方に、ちょっと近づいている。

山の恵みを必要なだけいただき、それを糧に地味に生きること。

活動家たちの浮かれた様子を横目に、僕は山に向かう。彼ら活動家の目的は「地域のため」とか、「世直し」とか言ってるけれど、結局は自分たちが有名になること。目標は自分たちの活動の成功であって、地域が元気になるとか、農家を救うとか言ってもそれは、彼らの実績作りの道具でしかない。ただのアイテムなんだ。事業をやって、実績が無いと困るから関係者を煽る。派手さとスピードと量を求めてくる。そもそも、彼らが勝手に始めたことなのに。地元住民は頼んでもいないことで急かされる。中には地元に根付くプロジェクトもある。そのポイントは、地元の人たちがやる気になり、主体となり、活動家がフェードアウトしていなくなっても、関係なく粛々と続くことだと、強く思う。彼ら活動家のミッションは、外から新鮮な考えを入れること。きっかけを与えて、動き始めたら静かに去るべきだ。実績が欲しいからいつまでもしがみつく。すごくかっこ悪い。自分たちがいないとプロジェクトが動かないと勘違いしている。本当に地域のためになっているプロジェクトなら、ゆっくりでもちゃんと動くものだと思う。

僕はこの地に永住しようと思っている。彼ら活動家とは覚悟が違う。彼らは外からやってきて、大騒ぎして田舎のおじさんやおばさんを巻き込む。数年で飽きて、また違う土地へ入り込む。そして、同じことを繰り返す。たいていの場合、補助金の出入りと共に動く。あまりの無礼さに地元から弾かれることもある。彼らが去ったあと、静けさと空しさが残る。結局、何の役にも立たないことが多い。

彼らとは距離を置いている僕はこの地で幸せに暮らしている。逆に、彼らと深く関わっていると、僕がここで暮らすのにマイナスになる。

僕の仕事相手は地球だし、僕にそれを教えてくれるのは地元の人たちや同じ思いを持った仲間たちだ。その中にはよそ者もいる(僕自身がよそ者だ)。でも、みんな地に足が着いている。

明日は集落組長としてのお役がある。僕はそれを誇りを持ってやろうと思う。

私の仕事

いくら浄化に贅を尽くしても、

 私たちは山が水を生むようには

 美しい水を生むことはできない

 とどのつまり、水を守るには山を守るしかない。

 そして、その山を守るには、

 山を守る人を守るしかない

 我が師匠、斎藤和彦の小屋に貼ってあった言葉より

僕の仕事(間伐)は、その結果を自分の目で見ることはありません。仕事の成果は、30年~40年後にしか現れないのです。

まだ見ぬ子孫に、当たり前の地球を残すことが僕たちの使命です。

一旦、人が植えた森林は、人が手を入れ続けるしかありません。それが間伐です。

間伐することで、林内に光を入れます。後は母なる地球に委ねます。地球環境を守りたいのなら、伐ったら見守るだけです。

人間が痛めつけた環境は、地球自身の自己再生能力で再生するしかないのです。

人間にはこの星を元に戻す能力などありません。治し方も知らないまま、壊し続けてしまったのですから。

たった百年の愚行は、この先何百年もかけて償っていかなければならない。

能力も資産も何も無い僕ができること。それは

「炭やきを通して、火の文化を守る」こと、

「山を手入れして水を守る」こと、

「間伐した木を挽き、「命の箱」を造り、きちんと使うこと」。

たったそれだけ。

僕が誇りを持って取り組む仕事です。

秋の気配

明日の契約打合せ(ちょっと大きな伐採仕事)に向けて資料を作っていて、久しぶりに日付が変わるまで起きている。

資料もでき、印刷を済ませてから外へ出てみた。

ひんやりとした空気。少しだけ、秋の気配だ。そう言えば今日の昼間、ツクツクボウシが鳴いていた。

僕が季節の巡りを感じるのは、やっぱり星空だ。

つい、先日のこの時間には夏の大三角が真上で、天の川が続く西の山には赤きアンタレス。北西にはまだアークトゥルスやスピカが輝いていた。春の大曲線だ。

今夜、この時間。北斗七星は沈み、カシオペアが昇ってきて、山の稜線にはペガサスの四辺形。秋の四辺形とも言われる。明け方にはオリオンも見えるだろう。

カシオペアとペガサスの四辺形の間には、アンドロメダ大星雲が肉眼で見える。すぐ下には土星。もうすぐ、木星も見えてくるはずだ。

宇宙(そら)は秋に変わっていた。

もう8月。稲もそろそろ穂を付ける時期。

戯言

今は植えるより、伐って使う時。戦後の拡大造林施策でほぼ無計画に植えてしまったスギやヒノキを伐って使わなければ、本来植える場所も作れない。

植林や植樹が「良いこと」としてまかり通ってる。

山は一つの生命体なんだ。人間が、そこに植樹をすることは、山に対する遺伝子操作である。

ただし、山には所有者がある。僕も山を所有している。

固定資産税を払っている地主が、その山をどうしようが、基本的には自由だ(保安林に指定されていない限り)。

だから、その山の30年後、80年後のグランドデザインを決めた上で、林業を営みたいのなら、無花粉のスギを植えるのも(僕は無花粉のスギは本来の強さが無いと思うから植えないけど)、一つの手段だ。

環境にいい山にしたいのなら、間伐したら放っておく。光と風を入れたら、あとは大地が何とかしてくれる。その山に残っている埋土種子が実生で発芽する。少なくとも、人間が植えなくても、そこに合った樹種が活動を始める。間伐してから何年も後に。ひょっとしたら、間伐してから何十年も後かもしれない。本当に環境に良い木が好むのは、湿っていて暗い環境だから、そこまで森が変化するのを待つということだ。

林業(間伐)は、結果が出るのが何十年も後だ。だから、施業した人間は、自分の仕事の結果を自分の目で見ることは無い。それが、環境を良くするための林業なんだ。

天然の森に、子供のためなどと戯言を唄いながら、広葉樹を植林している輩がいる。彼らは、また人工林を作りたいのだ。愚かな繰り返しに気づかず、俺が植えて育てているんだと威張りたいんだろう。自分たちが植えて、ある程度育った木を見てヘラヘラと喜ぶ。僕はそれを見て、バカがと唾を吐く。

僕が学んだ森林に対する姿勢とは、

人工林(人が植えた森)は、徹底的に人が手入れをする(伐るにしろ、植えるにしろ)。

天然林は、徹底的に見守る。地面に落ちた種から、実生で発芽して育つのを、ただただ見守る。決して、人間が手を加えない。それが自然を守るという行為だ。発芽して、それが枯れようとも、手を出さない。

そうやって、水源地の森を守るということなんじゃないか。

偏屈な木こりの戯言(ざれごと)と聞き流してもらえばいいけれど、こんなことを考えながら木を伐り、炭をやき、木を挽く田舎者が居ることを知ってて欲しい。

木こりとして

木の命を、人間の都合で奪ってしまうという行為。山に対し、木に対し、畏敬と尊厳を感じつつ、事情があって伐ると決めたら、こちらの都合で寝てもらう。

僕がコントロールして僕の搬出の段取りに合わせて、都合のいい場所に寝てもらうんです。

畏敬の念を持ちつつ、重力に逆らってコントロールするのが木こりです。気合入れて対峙しないと、本当に命を取られます。木を倒すって、チェンソーで木の重心を変えながら、力学的に木の先端にモーメントを与えて、道具で引っ張ったり、矢やジャッキで起こしたりします。

でも、最後は祈ります。木が倒れ始めたら、何をしても間に合わない。退避するだけです。母なる地球に引っ張られて、倒れてゆきます。その木の最期に立ち会うのが木こり。だからこそ、それをちゃんと使わせてもらうって、感謝の気持ちが無いといけないと思うんです。

優しい時間

折った樫の黒炭を並べて、時計を仕込みました。
昔からの同志である隼平君が言った。「時間を封じた素材でこれからを刻む至福」。
炭の原木は工場から6分の太田という集落の樫だ。40年生くらい。
ドングリから芽を出し、父なる太陽の恵みで光合成をくり返し、母なる地球である山の水と養分を吸い、育ってきた里山の樫だ。
その樫が生きてきた時間分の炭素を蓄えた幹から作った炭だ。
クラウドファンディングで支援してもらったお金を使って作った、ディメンションは昔ながらの比率、資材は耐火レンガに耐火セメントの窯で、職人が魂込めてやいた炭です。キッチリ高温炭化させているので、折った断面が金属のような光沢を放つんだ。
枠や裏板は、タチキカラの工場で挽いて、プレーナ仕上げして、丁寧に組んだ。ムーブメント以外は全て、タチキカラの工場で作った。
使っている板は、東栄町から伐り出して、天然乾燥して、タチキカラ工場で挽いて、プレーナ仕上げした。
時を刻むモノって、まるで生き物のようで、過去と現在と未来を繋いでるような存在だと思うんだ。
販売します。サイズはオーダーがあってから相談して作ります。
手間暇がかかるので、値段は一つ3万円~になります。



僕は・・・・

僕は、名も無き山守、炭やきでいたい。

だから、ひたむきに山に入り、愚直な仕事を繰り返し、質素な生活を続けるんだ。世間は変化し続けるだろうけれど、僕の仕事は変わらない。変える必要もない。それが僕のやり方であり、僕の答だ。

僕がやろうとしていることは、僕が新しく開発した技術でもなく、閃いたアイディアでもない。インターネットで仕入れた上辺の知識でもない。

先輩から直接伝え聞き、自分の五感で確かめたこと。古来、日本人が培ってきた方法であり、技術であり、それはまさしく文化そのものなんだ。山の恵みを頂き、それを大切に使う。ただ、それだけ。それ以上でも、それ以下でもない。

僕は、誰とも闘わない。でも、誰にも負けない。

母なる大地が僕を生かしてくれる。父なる宇宙(そら)が見守ってくれている。

山の時間に逆らわないよう、丁寧に仕事をする。

僕が新月と葉枯らしに拘り、伐り出した木々が、僕が魂込めてやいた炭が、誰かの小さな喜びになって、それが僕の糧になれば、それだけでいいんだ。