何もしらない人たち

現場で嫌な思いをした。たまたま用事があってでかけると、平日だというのに、6人の初老男性が作業していた。

僕が約一年前に伐ったたくさんの木(スギ・ヒノキ・マツなど)がキレイに片付けてあった。必要以上の片付け方にビックリした。

作業していたのは、CSRで町からやってきている大企業OBのおっさんたちだった。水源地にあるこの山を、都会の公園のようにしたいそうだ。苗木屋から広葉樹の苗を買ってきて植えると威張っていた。しかも、サクラ・モミジ・クヌギを植えると言う。その林にはアベマキやコナラはあっても、クヌギなど無い。元々そこには無い種を外から持ち込むということがどれくらい愚かなことかわかっていない。野生動物や風が運び込んだ種なら、淘汰されて生えてこない。違う遺伝子を持った苗木を植えてしまえば、その苗は育ち、光を遮られた本来の種が絶えてしまう。結果的に人が遺伝子操作を行ったことになる。

彼らは、人工林を天然林(のよう)にしたいと、落葉広葉樹をたくさん植えようとしている。それは再び人工林を作ってしまうということなのに、それさえも自分たちのエゴにかき消されてわからなくなっているようだ。

下草も必要以上に刈りこんである。実生で出ていた若木も刈られ、林床には何も無くなっている。遊歩道が作られ、一見キレイに整備されているけど、一年前に来ていた頃とは違う。植林されたヒョロヒョロの若木だけが立っている。ところどころ、太いヒノキが立っている。あれを混交林と呼べるのだろうか?僕の目にはとても不気味な景色に変わっていた。命の循環を感じない山になっている。

一緒に行った仲間が「それは生態系にとってマイナスですよ」と言ってもあのおっさんたちには理解できないようだった。

「2~30年放っておけば、必ずいい林になる」と言った僕に、「それじゃ意味が無い。俺は見られないじゃないか」と食ってかかる。

あきれた。こんな奴らが「森林保全」だとか、「里山の復活」だとか言い、本来その場所には無い種を持ち込んで、環境を壊しているのだ。自分たちが見たいから?自分たちの活動の結果をアピールしたいから?俺たちがこの山を造っているんだと威張りたいから?

切れないチェンソーを振り回し、やたらとエンジンを吹かす。無負荷であんなに回せばすぐに壊れるだろう。排気の匂いは、高負荷用ではない普通の2ストオイルだ。おまけに、立っている木を伐る知識や技術、道具は持っていない。(だから僕が依頼されて伐った)

きっと奴らの価値観は「他人からどう見られるのか?」なんだ。奴らの相手は、社会や世間なんだ。

少なくとも、僕はあんなおっさんにはなりたくない。地球を相手に、自分のできることを、コツコツと積み上げてゆきたい。

人工林の木々は、植えた人の想いが残っている。でも、間伐しなければその森が死んでしまうから、伐る。

天然林の木々は、そこに生きている命全てが必要としている。恵みを頂くことを感謝しつつ、伐らせてもらう。

日本の山林には、「埋土種子」が眠っている。針葉樹、広葉樹、いろいろだ。それらは、林床に光が入るのを何十年も待っている。人間たちが自分たちの都合だけで植えてしまい、手入れもせずに放っておかれた木々の根元で・・・

芽を出すのは、その林で何代にも渡って生きてきた種だ。何万分の一の確立で、光を浴び続けた固体だけが生き残り、生長する。寿命をまっとうすれば、倒れる。そして、次の埋土種子が芽を出すのだ。その繰り返しが森林(地球)の営みだ。人間が介入すべきではない神の領域なのだ。1サイクルは最低でも数百年。人間がその目で森の一生を見ることはできない。先祖から子孫にその思想が受け継がれ、それぞれの人たちは見守ることしかできないはずなのだ。

それでも、山の持ち主が自分の山をどうしようが勝手だ。人工林にして、木材として売って利益を生むのなら、それでいい。手入れをして、良い材を作り、それを出荷する。それが林業だからだ。

里山の恵みを頂いくのもいい。全てをむしり取るような採り方をしなければ。

本来、山の恵みを頂くとは、自然の生長量を超さない範囲である。それは、全ての生き物が分け合うものだと思う。

あのおっさんたちは、それを知らないだけだと思うけれど、安直な自然保護をしている自分に酔っている。がっかりするような大人たちだ。

あの山は、共同所有で、山に対するグランドデザインが絞り切れていないのも事実。だから、生半可な知識で入ってきてしまう。

ただ、僕はそれを教えるような立場でもないし、彼らには関わりたくもない。

思うのは、自然(地球)を人間が何とかしようとする思い上がりだけは慎みたいということだ。

山で見る夕日

一心不乱に山仕事した後、肌寒いくらいの気温と、山の夕方独特の空気を味わっていたときの事、
ふと見上げると夕日が真っ赤。山の稜線の上に浮かんでいる太陽はすごい存在感を放つ。
急いでコーヒーを淹れ、切り株に腰をおろして眺める。
ゆっくり下に移動する太陽の動きを、しっかりと体に刻もうと神経を集中させて眺めていると、
確かに自分が太陽系の中に居て、地球と共に動いている実感がわいてくるんだ。
地球の自転するスピードを感じる瞬間でもある。僕の体内時計と地球の自転が同期したような気がして嬉しくなる。地球が宇宙の一部である事を改めて想う。

僕の魂と身体は、その母なる地球の一部。こんな僕でも、この星のために必要な存在である。そんなことを考える。
毎日、どこにいても、なにをしていても、地球は黙って自転を続けている。

夕日が沈むその太陽の動きは、実は地球が自転しているスピードなんだよね。

「日が沈む」のではなく、「自分が立っているこの大地(地球)が堂々と回転している」。

その神秘的な動きそのもの。当たり前の事かもしれないけれど、40億年以上も変わらず、乱れず動き続けるこの星をもっと大切にするべきだ。

ネイティブアメリカンの言葉には、母なる大地(地球)、父なる宇宙(そら) とある。

僕がこうして生きている場所は、愛しい母の懐。

それを天の父が見守ってくれている。

石ころ一つにも、命は宿り、名も無き山の頂にも、神は棲む。
ちっぽけな人間一人が、何をできるのか?よく考え、行動に移さなければならないと、深く想う。