間伐について

山を相手にするということは、地球を相手にすることです。僕ら木こりは、山に絶対の畏敬の念を払いつつ、山から資源を頂かなければなりません。超えてはならない一線を意識しつつ、立ち向かってゆくことに、仕事の喜びがあります。

間伐は、その結果を自分で見ることの無い仕事です。

伐ってから数十年後でないと、本当の効果が見えないからです。

間伐することで、林に光が入り、埋土種子が待ちかねたように芽を出し、潜在的な(その場にあった種)植生に推移するのに、長い時間がかかるからです。命の水を生み出す山に戻るのには、僕の時間で言う一代では無理なんです。

「治し方も知らないのに、壊し続けてしまった」

地球を元に戻す能力は、残念ながら人間には与えられていません。母なる地球そのものの、自己再生能力でしか、再生しません。それは人間の時計では計れない時の流れが必要になります。

内山節さんが言われる「稼ぎ」と「仕事」が存在するならば、間伐は「仕事」なんです。

「この地球は子孫から借りただけもの」ですから。

ちゃんとした形で返すのが僕たちの仕事だと思ってます。

一旦、木を植えたら、手入れをし続けなければなりません。

針葉樹だろうと、広葉樹だろうと、人が植えれば「人工林」なのです。

間伐材というランクの木はない

「間伐材」ってランクの木はありません。僕は「間伐」を仕事で請けます。間伐した木を出して、挽いて、製品にします。その木々は立派な「木材」です。「間伐」は施業の一種であり、木の品質を示す言葉ではない。今まで、何度も聞いて残念だったのは「間伐材って、山に転がってるからただでくれるんでしょ?」って言葉。確かに、小径だったり、曲がってたりする。それらの木だって、何十年か前に誰かが苗木を背負って山に入り、穴を掘って植えた木。一本一本、丁寧に。「いい柱になれよ」と願いを込めて。仕事で淡々と植えた人もいるのだろうけれど、田植え機で田植えするのとは違い、一本ずつ手で植えられている。全ての「木」に、植えた人の思いが篭っている。僕がやっている「間伐」というのは、「保残木」と「将来木」を決めて、それに対して伐った方がいい木を伐る。「太くていい木」でも、「細い将来木」に悪影響があると思えば迷わず伐る。「何割間伐だから何本伐る」じゃないんだ。その山の何十年か先、いや、何百年先、何世代も先のことを考えてデザインする。そして、できる限り、伐った木を出す。太くて真っ直ぐな「いい木」も、細くて曲がっている「おぞい木」も、同じ「木」なんだから。「おぞい木」だって、山の恵みだから。製材を始める前は、「間伐」した木を出してトラックに積んで。市場へ出していた。市の土場に着いて、受付して、グラップルで降ろしてもらって、はい積みしてもらう。その時点で、間伐した木かどうかなんて、わからなくなる。そこに積まれているのは「伐採した木材」。細かったり、曲がっていたり、太かったり、真っ直ぐだったり、目が詰んでいたり、アテが入っていたり。そこに存在する価値観は、その木一本一本の価値。ランク付けだ。つまり「いい木」か「良くない木」か。「木」そのもののランクで値が変わるのが当たり前。「間伐材」だからと、一くくりで「安くて悪い材」というのは有り得ない。「間伐材の有効利用を!!」ってキャンペーンが打たれる。それは安くて大量に出る材ってことが前提になってることが多い。建築用材もあり、バイオマス利用あり。結局、山から安く買い叩くことで、企業が儲けるしくみだ。大企業を儲けさせるために、国が補助を出す。山側に入るお金は限りなく、ゼロに近い。普通にやっていれば間違いなく赤字。「間伐材のバイオマス利用で、林業が活性化する」なんて、有り得ない。立米あたり、3万円くらいで買ってくれたら、何とかなるだろう。集成材がもてはやされ、山の木が根こそぎ持っていかれる。それだって、国の補助を受けて作った大企業の巨大工場を稼動させるため、山から安く木を持ってゆく(立米数千円だ)。接着剤まみれの、換気扇を24時間動かさないと暮らせないような木材を作るため。僕はそんな大きな流れに乗って儲けようなんて、思わない。小さな仕事でも、一本一本の木の価値をきちんと出して、ちゃんとした価格で出す。僕が拘っている 旬、新月期伐採・葉枯らし・自社製材・天然乾燥 のスギ材は、立米15万くらいで出します。そうでないと、木こりが木こりで食えない。補助金もらわないと成り立たないっておかしい。大きな林業家からは鼻で笑われるようなことかもしれない。だけど、価格を決めるのは一次生産者でなければならないと思うんだ。国の根幹を支えるのが第一次産業だと信じている。相場に左右されたり、安いのが正義とばかりの中間業者が決めた価格ではなくて、山側が、補助金をもらわなくてもやってゆける価格を考えたら最低でも立米15万なんだ。しかも、僕は伐って・出して・挽いて・運ぶ。極力、全部自分でやることでコストを抑える。伐り時、初期乾燥(葉枯らし)に拘ることで価値を高める。当たり前の企業努力をした上で、山の恵みを頂くという、謙虚な気持ちと、植えた人に対する思いを形にしてゆきたいんだ。「間伐材」って安易に使うようになったのは、林野庁から降りてきた補助金申請の文言。つまり、山側で使い始めた。自分たちの首を自分たちで絞めてしまった。今からでも遅くないので、僕たちは「間伐材」という言葉を使わない。間伐した木を、一本一本の「木」として扱ってゆきます。

山のめぐみで生かされる

お世話になっている人から山を預かり、間伐仕事を請けた。伐った木を生かそうと、自分で製材も始めた。その木がどこで生きてきたかハッキリとわかる。トレーサビリティをかけるなら、それは僕自身の軌跡を示すことになる。伐り旬を守り、新月前の一週間に拘り、伐った木は出して使うのを前提で寝かせる方向を見極め、そこへ丁寧に倒しこんだ。誰が伐ったかハッキリとわかる。大地へ委ねて木を乾燥させた。命を奪ったのは僕だ。それを大切に使わせていただくんだ。「いただきます」とはこのことだ。生きてきた場所で、静かに乾燥を進めた木々たちは穏やかに乾いてゆく。葉枯らしといって、伐ったら枝払いなどせず、そのまま森の中に寝かせておく方法なんだ。葉っぱは生きているから、常に蒸散を続ける。根っこから水を吸えないので、木は静かに自らの水分を抜いてゆく。お米のはざかけと同じ。父なる太陽の力で乾燥させる。スギで最低4ヶ月は葉枯らしする。ヒノキはもう少し短くてもいい。葉枯らししたスギは、赤身が素晴らしい色になるんだ。何故かは知らないけれど、製材してから時間が経つほどに美しく姿を変える。木にあらたな命を吹き込むのが木挽きだ。たとえば二股の木。これを市場へ出しても二束三文でしか売れない。トラックに積むにしても、一番上に積む段取りをしなきゃいけない。そもそも、二股を市場へ持ってゆくことが無い。股の部分は切り取られ、現場に置かれる。木挽きを始める前の僕なら、薪にするか、木の駅プロジェクトに出荷してしまう木だった。でも、今は違う。一本の木を、元から裏までできるだけ使いたい。それは、植えた人の思いだから。その木の最期に立ち会った、伐った木こりの願いだからだ。その山から巣立って行った木々たち。名古屋へ、一宮へ、静岡にも行くかな?普通の3倍以上手をかけても、3倍の値段では売れない。けれど、その想いが篭った木々たちに値段をつけて、僕は稼がなければならない。相場や流通が決める値段ではなく、挽き終えた木そのものの価値を見て、僕の経費、山主さんが植えて育てた経費をいただけるような価格に。当然、高い木になるはずだ。お金を払う人が(家を建てる人が)、お金を使って幸せになるような木を出してゆくこと。それが僕の仕事なんだ。仲間に手伝ってもらいながら、しかし基本的には一人で仕事しているから、経費は知れている。僕自身、お金を稼ぐのが一番の目的で山へ来た訳ではない。暮らしてゆく最低限稼げればそれでいい。毎日山の空気を吸い、山の懐で働き、山のめぐみをいただき、火を焚き、山に抱かれて眠れたら、それでいいんだ。旬・新月期伐採・葉枯らし・製材と、木が立っている状態から、大工が使える状態にするまで僕の手でできるだけ丁寧にやっている。「すごいですね」って褒めてもらうけど、「すごい」のは山であり、木々たちであって、僕を褒めてもらうよりも、僕が出した木を褒めてもらう方が嬉しい。僕がやいた炭を褒めてもらう方がいい。木は、母なる地球(大地)と父なる太陽(宇宙:そら)が育てた。何十年もその場に留まり、風雪に耐え、空気と水を育む森を造り出す。密やかに、力強く、堂々と。僕はそんな木みたいな人になりたくて、毎日木に向かっているんだと、最近気付きました。稼ぎも少なく、地味な暮らしだけど、毎日充実していて幸せなんです。それは、山のめぐみ。木々たちのおかげです。どんな小さな、名も無き山にも棲むという神に見守られ、僕はたいした怪我も無く生かされている。この意味はなんだろう?って、山に問いかけても答えてくれません。僕がどんなに山を愛し、僕の足音を山に聞かせても、山の木々たちは、僕を必要とはしていない。それが宇宙の真理・法則なんだと思う。そんな事を日々考えている炭やき・木こりがいてもいいですよね。

師匠の教え

いくら浄化に贅を尽くしても

  私たちは山が水を生むようには美しい水を生むことはできない

   とどのつまり、水を守るには山を守るしかない

    そして、その山を守るには、山を守る人を守るしかない


師匠の小屋にある日、掲げられた言葉です。師匠は、これを黙って僕に読ませたかったのでしょう。
僕に道を示してくれました。

「お前も、人から守ってもらえるような人間になれ」と。

しかし、具体的な教えはありませんでした。自分のことは自分で考えてやれと。

師匠は熱い人でした。本物でした。

僕の行動や言葉の中心に、この言葉が根付いています。

炭やき、木こり、そして木挽き。全てがここに向かう仕事だと、それはもう信念みたいなモノで、

何で山仕事を選んだのですか?と聞かれたときの僕の答えがこれです。おこがましいけれど、命の水を守りたい。

僕が死ぬまで細々と灯し続けてゆく、決して消えない炎です。

原点

全ての源は「山」だと思う。
命の水を生み出すのが「山」だから。
そして僕は、その「山」を相手に仕事させてもらっている。
僕の場合、炭の原木をいただく場所である。大事な原料の調達場所。
炭にするのは、樫やコナラ、アベマキ、シデ、桜など。
いわゆる「里山」に自生している広葉樹たちだ。落葉広葉樹が多い。
自らの命を守るために、冬になると木々は葉を落とす。その葉には、光合成をした結果の養分がたくさん残っている。それが林床に落ち、母なる地球を根底から支えている微生物たちの食料となり、やがて土に還る。
その土は腐葉土と呼ばれる、空孔がたくさんあるフカフカの山土となる。スポンジのように水や養分を蓄え、それはその元になった落葉樹の命を育む。
微生物は分解者と呼ばれ、その数が多いほど、生態系ピラミッドの根底が安定する。微生物たちの有様が、そのピラミッドの頂点を高くする訳だ。
落葉広葉樹の20年生くらいを元で伐ると、翌年にはその切り株横から新芽を出す。ヒコバエだ。萌芽更新とも言われる。その営みは6~7回はできると言われている。
里山の木は、頂いてこそ、更新する。必要な分だけ、大切にいただく。
炭にしたあと、その窯で一番良くできた炭を、その切り株の土に戻すのが僕の流儀だ。ずっと昔から脈々と続いてきた、人と山との付き合い方。
「里山資本主義」って言葉がある。僕はその言葉が大嫌いだ。人間が上で、それ以外は全て、人間の営みのために利用してやるという魂胆が見えるから。
母なる地球を痛めつけ、その上、まだ搾取しようとするのか?
僕は無宗教だけれど、名も無き山に棲む神を信じている。
僕を含め、人間たちはその神を大切にしていない。
人間なんて、その最期を分解者に捧げていないのだから、食物連鎖に入れない。生態系ピラミッドからも弾かれる存在なのだ。思い上がりもいい加減にしないと、バチが当たる。
僕を含めてと言ったのは、僕自身も母なる地球を痛めつけている張本人だから。
車に乗り、携帯を使い、NETで情報を集め、化石燃料を使って木を伐っている。コンビニの弁当も食うし、ユニクロの服を着る。自然環境を語りながら、便利な世の中を利用している。

自分の中の矛盾と無情を毎日感じている。
山仕事だって炭だって、地球のためとか言っているけれど、本当はただ、自分がやりたいだけなんだ。
だから僕は、志半ばの半端者です。
けれど、これでいいと思ってるし、ここから逃げ出そうとは考えてもいない。死ぬまで、炭をやき、木こりと木挽きの毎日を、誰にも見られずに続けてゆこうと、静かなる
覚悟を宿しているわけであります。
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僕の仕事

僕の仕事は「炭やき」「木こり」「木挽き」だ。
僕の木こり仕事は、個人で個人の山を請ける形。施業形態は「間伐」。施主の自主間伐を手伝うやり方。もちろん、施主にも伐ってもらう場合がある。3割とか4割とか、伐り置き間伐なら仕事はここまで。けれど、どんな細い木でも、曲がっている木でも、誰かがコツコツと植えた木々たち。山に置いてゆくのはもったいない。「いい柱になって、儲けさせてくれよ」と願いを込めて植えられた木々だ。
だから、できる限りその木々を搬出したい。出した木を市場へ出せば、運賃も出ない値になってしまう。だから出せないのは仕方ない。出した木で収支が成り立てば頑張って出す。ならば、陳腐な言い方だけど、「付加価値の高い商品にする」しかない。

経費や手間を考えれば、その商品を自分たちで造ってしまえばいいんじゃないか。で、スタートしたのが「木挽き(こびき)」

何でもかんでも間伐して挽けば売れるか?と言えば、安価で大量に作らなければ採算が合わない。それは目に見えている。

僕たちの伐採は、高性能林業機械などを導入できないから、一本一本木を見て、その木に触りながら、言葉をかけながら伐る。

その山に対する畏敬の念を持って仕事をしたいと願う僕にとって、木を伐る時期は大切な要素だ。それは「伐り旬」と呼ばれる期間。秋の彼岸から春の彼岸まで。父なる太陽と母なる地球の関係で、太陽が穏やかな期間だ。その期間、木はゆっくりと生きている。年輪の冬目が形成される期間だ。その間、木は水を上げる量が減る。挽いた材は乾燥させなければならない。だから、予め水分の少ない時期に伐りたい。水分が多くて、気温が高い時期は、虫が入って活発に動くから木が腐りやすい。

だから、伐り旬に伐る。そして、僕が拘る時期が「新月期」賛否両論あるのは充分に知っているつもりだ。新月期は生き物のバイオリズムが穏やかになる。木で言えば、でんぷんが少なくなる。だから、木が腐りにくい。細胞が大人しくしている期間だから、伐ったあと、割れたり反ったりしにくくなる。科学的、数値的に証明された訳ではないけど、僕の経験上からしても、新月期に伐った木は明らかに腐りにくい。これも太陽と地球と月の位置関係。宇宙の動きを感じながら木を伐るんだ。

伐った木は、4mとか、3mとか、その木が柱や板になった姿を想像しながら山で造材して、引っ張りやすくする。

僕たちはその造材作業をすぐにはしない。「葉枯らし」という方法で、木を初期乾燥させる。元を少し上にした状態で伐り、そのまま葉っぱをつけたまま林内に置く。ヒノキで1ヶ月、スギで3ヶ月以上の時間。伐られて形成層から水分を上げられなくなった木は当然乾いてゆく。葉っぱが付いていれば、光合成は行われるので、蒸散作用は続く。水分の供給は断たれているので、木はゆっくりと枯れて(乾燥して)ゆく。現代の林業では、これをやると効率が悪いので、伐ったらすぐに造材・搬出して製材し、その後で人工的に乾燥させる。いわゆる人乾材になる。いろいろな乾燥方法があるのだけど、熱を加えて乾燥させる人口乾燥材は明らかに死んでしまう。リグニンとか、木の主成分は80度くらいで蒸発すると言われている。熱を加えることで水分だけを追い出すのは、木の細胞を死滅させてしまうことになる。木の形はしているけど、樹ではない状態。

米だってそうだ。天日乾燥が美味い。木だって同じだと思う。だから、初期乾燥は葉枯らしして、挽いた後は天日乾燥に拘りたい。その手法は、時間は何倍もかかるけど、経費は少ない。僕はその浮いた分を山へ還元したいんだ。

挽き方にも拘る。高価な自動製材機だと、木の芯やクセを見ることもなく、規格の揃った材を生産する。増して、集成材はそうだ。

僕たちは、一本一本、芯を芯にして、丁寧に挽く。アテを取り、木を楽にさせてから、じっくりと木取りする。時間はかかるし、効率が悪い。けれど、それが僕たちのやり方。木は一本一本違う。僕たちは生き物を相手にしているんだ。クセも違うし、どの部材に適しているか、それも違う。僕はまだまだ未熟で、木口を見ただけで、理想的な木取りはできない。しかし、真面目にそこを目指したい。

旬の新月に伐った木は、腐りにくくてちゃんとしている。葉枯らしした木は、色目や冬目(年輪)が格段にキレイ。匂いもいいし、割れにくい。たとえ割れても、生の入った割れ方をするものだ。

僕の伐った木々が、誰かの「命の箱」に生まれ変わって、何十年とその人とその家族の暮らしを守り、育む。

それは全て、地球の恵みだ。僕はそれを届けるだけだ。

僕たちの暮らす山村は、川の水源地になる。水を生み出すのは山だ。全ての生き物の源が山なんだ。そして、その山は、
母なる地球そのものなんだ。

僕の望みは、名も無き「山守」「水守」です。田舎で生きてゆくのに最低限の稼ぎがあればよくて、名も無き山の懐に抱かれて眠り、静かな朝を迎え、丈夫な身体を使って働き、その仕事が誰かの役に立てればそれでいい。もちろん、人並みに欲はある。車も欲しいし、美味いものも食いたい。

僕の仕事は秋にスタートする。彼岸から彼岸の新月期に伐り、春まで葉枯らしし、春に挽き、夏に干す。一本の柱になるのに、早くて一年以上かかる。だから、儲からない。けれど、このやり方しかない。僕はこんな仕事しかできないけれど、この仕事は僕にしかできない(と思う)。

少なくとも、今の僕の方向は合っているし、こんなに貧乏でも充実していて幸せだと、それだけは胸張って言える。

これから先、僕の仕事はどうなってゆくのか、期待と不安でいっぱいだけど、仕事が増えすぎたらどうしよう?と、どうせ心配するなら、ポジティブなことを心配しようと思っています。

長い文章、読んでくださりありがとうございました。

何もしらない人たち

現場で嫌な思いをした。たまたま用事があってでかけると、平日だというのに、6人の初老男性が作業していた。

僕が約一年前に伐ったたくさんの木(スギ・ヒノキ・マツなど)がキレイに片付けてあった。必要以上の片付け方にビックリした。

作業していたのは、CSRで町からやってきている大企業OBのおっさんたちだった。水源地にあるこの山を、都会の公園のようにしたいそうだ。苗木屋から広葉樹の苗を買ってきて植えると威張っていた。しかも、サクラ・モミジ・クヌギを植えると言う。その林にはアベマキやコナラはあっても、クヌギなど無い。元々そこには無い種を外から持ち込むということがどれくらい愚かなことかわかっていない。野生動物や風が運び込んだ種なら、淘汰されて生えてこない。違う遺伝子を持った苗木を植えてしまえば、その苗は育ち、光を遮られた本来の種が絶えてしまう。結果的に人が遺伝子操作を行ったことになる。

彼らは、人工林を天然林(のよう)にしたいと、落葉広葉樹をたくさん植えようとしている。それは再び人工林を作ってしまうということなのに、それさえも自分たちのエゴにかき消されてわからなくなっているようだ。

下草も必要以上に刈りこんである。実生で出ていた若木も刈られ、林床には何も無くなっている。遊歩道が作られ、一見キレイに整備されているけど、一年前に来ていた頃とは違う。植林されたヒョロヒョロの若木だけが立っている。ところどころ、太いヒノキが立っている。あれを混交林と呼べるのだろうか?僕の目にはとても不気味な景色に変わっていた。命の循環を感じない山になっている。

一緒に行った仲間が「それは生態系にとってマイナスですよ」と言ってもあのおっさんたちには理解できないようだった。

「2~30年放っておけば、必ずいい林になる」と言った僕に、「それじゃ意味が無い。俺は見られないじゃないか」と食ってかかる。

あきれた。こんな奴らが「森林保全」だとか、「里山の復活」だとか言い、本来その場所には無い種を持ち込んで、環境を壊しているのだ。自分たちが見たいから?自分たちの活動の結果をアピールしたいから?俺たちがこの山を造っているんだと威張りたいから?

切れないチェンソーを振り回し、やたらとエンジンを吹かす。無負荷であんなに回せばすぐに壊れるだろう。排気の匂いは、高負荷用ではない普通の2ストオイルだ。おまけに、立っている木を伐る知識や技術、道具は持っていない。(だから僕が依頼されて伐った)

きっと奴らの価値観は「他人からどう見られるのか?」なんだ。奴らの相手は、社会や世間なんだ。

少なくとも、僕はあんなおっさんにはなりたくない。地球を相手に、自分のできることを、コツコツと積み上げてゆきたい。

人工林の木々は、植えた人の想いが残っている。でも、間伐しなければその森が死んでしまうから、伐る。

天然林の木々は、そこに生きている命全てが必要としている。恵みを頂くことを感謝しつつ、伐らせてもらう。

日本の山林には、「埋土種子」が眠っている。針葉樹、広葉樹、いろいろだ。それらは、林床に光が入るのを何十年も待っている。人間たちが自分たちの都合だけで植えてしまい、手入れもせずに放っておかれた木々の根元で・・・

芽を出すのは、その林で何代にも渡って生きてきた種だ。何万分の一の確立で、光を浴び続けた固体だけが生き残り、生長する。寿命をまっとうすれば、倒れる。そして、次の埋土種子が芽を出すのだ。その繰り返しが森林(地球)の営みだ。人間が介入すべきではない神の領域なのだ。1サイクルは最低でも数百年。人間がその目で森の一生を見ることはできない。先祖から子孫にその思想が受け継がれ、それぞれの人たちは見守ることしかできないはずなのだ。

それでも、山の持ち主が自分の山をどうしようが勝手だ。人工林にして、木材として売って利益を生むのなら、それでいい。手入れをして、良い材を作り、それを出荷する。それが林業だからだ。

里山の恵みを頂いくのもいい。全てをむしり取るような採り方をしなければ。

本来、山の恵みを頂くとは、自然の生長量を超さない範囲である。それは、全ての生き物が分け合うものだと思う。

あのおっさんたちは、それを知らないだけだと思うけれど、安直な自然保護をしている自分に酔っている。がっかりするような大人たちだ。

あの山は、共同所有で、山に対するグランドデザインが絞り切れていないのも事実。だから、生半可な知識で入ってきてしまう。

ただ、僕はそれを教えるような立場でもないし、彼らには関わりたくもない。

思うのは、自然(地球)を人間が何とかしようとする思い上がりだけは慎みたいということだ。

山で見る夕日

一心不乱に山仕事した後、肌寒いくらいの気温と、山の夕方独特の空気を味わっていたときの事、
ふと見上げると夕日が真っ赤。山の稜線の上に浮かんでいる太陽はすごい存在感を放つ。
急いでコーヒーを淹れ、切り株に腰をおろして眺める。
ゆっくり下に移動する太陽の動きを、しっかりと体に刻もうと神経を集中させて眺めていると、
確かに自分が太陽系の中に居て、地球と共に動いている実感がわいてくるんだ。
地球の自転するスピードを感じる瞬間でもある。僕の体内時計と地球の自転が同期したような気がして嬉しくなる。地球が宇宙の一部である事を改めて想う。

僕の魂と身体は、その母なる地球の一部。こんな僕でも、この星のために必要な存在である。そんなことを考える。
毎日、どこにいても、なにをしていても、地球は黙って自転を続けている。

夕日が沈むその太陽の動きは、実は地球が自転しているスピードなんだよね。

「日が沈む」のではなく、「自分が立っているこの大地(地球)が堂々と回転している」。

その神秘的な動きそのもの。当たり前の事かもしれないけれど、40億年以上も変わらず、乱れず動き続けるこの星をもっと大切にするべきだ。

ネイティブアメリカンの言葉には、母なる大地(地球)、父なる宇宙(そら) とある。

僕がこうして生きている場所は、愛しい母の懐。

それを天の父が見守ってくれている。

石ころ一つにも、命は宿り、名も無き山の頂にも、神は棲む。
ちっぽけな人間一人が、何をできるのか?よく考え、行動に移さなければならないと、深く想う。