炭やき仕事

午前1時。工場に来てる。昨日から窯を焚いてるので、初日はこうして夜中にも薪をくべに来るんだ。

見上げると、同じ位置に同じ星。南の山の上には冬のダイアモンド、北には北斗七星からの春の大曲線。

月は昨日と位置を変え、ほんの少し欠けている。

星の位置も、正確には同じ時刻に同じ位置には無い。

いつも思うんだけど、日々のこの、僅かな変化を愛おしむような、儚く消えゆくものを大切にするような、そんな生き方をしたい。

絶えず堂々と回り続ける地球。

それを感じるのは、それぞれの感性。街に居ても、山で暮らしていても同じはずだ。

夜中に、まるで生き物のような窯と対峙していると、ついつい理屈を捏ねたくなる。

そう言えば今日も誰とも会っていないし、話もしていない。

窯から出した炭は、ちょうどいい長さ(基本は7センチ)にカットして、袋か箱に詰める。それでようやく、お金に替わる訳だ。今日は朝からずっと炭を切っていた。

固定した丸鋸で炭を切るんだけど、もう面白い程真っ黒になる。例えれば、ドリフの爆発コントみたいだ。当然、その顔ではコンビニにも行けない。

鏡を見ると、自分でも笑ってしまう。でも、そんな真っ黒な顔になっていても、むしろ誇らしいというか、これが炭やき職人の顔なんだと思う。

今年もお世話になりました

2023年も終わり。
今年は怪我に泣かされた。特に夏以降、参った。
全て、自分の責任。しかも、仕事の道具(草刈り機と製材機)での怪我。
情けない。それでも、還暦過ぎのこのポンコツおっさんのカラダでも、日に日に怪我は回復してきている。傷口はすっかり塞がり、痛みも少なくなってきた。生きているという事は、細胞分裂を繰り返し、日々変化してゆくことなんだな。

さて、来年も変わり映えのしないこのおっさんですが、よろしくお願いいたします。

変わらぬ想い

山仕事をすると、不思議な感覚になる。

多分、命の源に触れるからなのだろう。

母なる大地と、父なる宇宙(そら)をつないでいるのが山の木々たちだ。

大地に根を張り、その恵みである水と養分を吸い上げ、宇宙(そら)に向かって枝葉を伸ばし、唯一地球外から入ってくる太陽光エネルギーを取り込み、反応し、蓄える。

その木々は、酸素を造り、毎年葉を落とし、寿命が来たときに、自らの身体を大地に預け、再び土を肥やす。その腐葉土だけが、本当の命の水を生み出す事ができる。

命の水は、山が造りだすのだ。僕たち人間が、どうあがいても命の水を造りだす装置はできない。悲しいけれど、人間にそのような能力は備わっていない。

命の水を守るには、山を守るしかなく、山を守るには、山を守る人を守るしかないのだ。

人工林の間伐に精を出す僕だけど、なぜか取りつかれたように夢中で伐る。

自分の居場所を見つけたような感覚だ。

先人たちが植えてくれた木々だ。無駄にする訳にはいかない。

今は間伐するしかないんだ。

一旦人が手を入れた森は、人が手を入れ続けなければならない。自然の摂理を無視して植えてしまった人間の愚かさ。

けれど、今はそれを議論している場合ではない。日本中で今すぐに間伐を待っている森は600万haあると言われる。だから、間伐する。

僕たちの世代は伐る世代なのだ。

間伐したあと、その森はゆっくりと本来の姿に戻っていく。恐らく、7~80年先だ。

僕が生きている間には結果を見ることはない。僕はそれをとっくに覚悟している。

それが山を守ることになるのだ。

金持ちになること、有名になることはとっくの昔に諦めた。

諦めたというより、そんなこと、どうでも良くなったんだ。

僕は心からこう思う。

名も無き山守になりたい。

ただただ、水を守る人になりたい。

向かい風

この三か月、二度の怪我で仕事のスケジュールが大幅に変わり、段取りが狂い、結局やることは変わらないので、痛みを堪えて無理する事になった。我ながら還暦を過ぎてからの、異常な暑さの中で、この状況をよく乗り切ったと思う。それでも、次の現場は始まっている。先週から伐採を始めている。相棒は絶対的な信頼を置いてる中條(ちゅうじょう)さん。彼は40代前半でバリバリの現役庭師(僕と組むようになってからは、木こり寄りの庭師だけど)。樹上仕事を積極的にこなしてくれる。仕事は僕が請けているけど、彼の立場は僕と対等。年齢を超えて、お互いをリスペクトしている。従業員ではなく、外注の職人さんという立場。

作業手順などの提案は全てきちんと聞くし、特に安全に関しては徹底的に議論する。最終的には僕が判断するんだけど、一度決めた事は黙って従ってくれる。時間も仕事の態度も真面目。特に安全に関する意識が近い事、お互い個人事業主として、もはやケチと思われるくらいに経費を使わないようにしているけど、道具に関してはちゃんとしたモノを買うところが似てる。

彼がいてくれる事が前提で今回の現場も請けられた。

春から請けていた伐採・製材仕事も先週ようやく、キリがついた。8月に10針縫った怪我をした現場も、施主の暖かい配慮で延期してもらって、先週残りをやっつけてきた。指の怪我もちょうど、現場が始まるタイミングで治療を終えられて良かった。本当に、怪我はしちゃいけない。身も心も収入も削られる。

そんな慌ただしい日々を過ごしていて、昨日の送迎で乗ったハイエースはスタッドレスに替わっていた。

もう11月。朝と夜はストーブも焚いてる。あと40日余りで今年も終わる。

動き続けているからこそ、日々はあっと言う間に過ぎ、正面から風を受けているような感覚だけど、これで立ち止まれば風は止み、寂しく感じるんだろうな。

若い頃のように、上へ昇るような日々はもう無くて、降りてゆく生き方を選んでいるつもりだけど、やっぱり立ち止まる訳にはいかない。忙しいくらいがちょうどいい。

束の間の休日に

束の間の休息を味わった数日。また明日からは現場だ。

そんな、何もしないと決めた日の夕暮れ。太陽が西の稜線に沈む。

実は太陽が沈むのではない。太陽は太陽系の恒星なので動かない。動いているのはこの地球だ。母なる地球は、何十億年も変わらないリズムで回転している。この世で最も崇高で、神秘的な事はこの星の自転だと思うんだ。自転によって、重力や時間の概念が生まれ、そもそも自転していることでこの星の環境は現在の形になり、それに適応した全ての生き物が共存している。

あの、太陽が沈む時のスピードは、この地球がこの無限に拡がる大宇宙の中にぽっかりと浮かんでいて、堂々と回転しているそのスピードなのだ。

その地球の表面にちょこんとへばりついている僕たち。その様を宇宙から眺めるように想像してみる。すると、足元は地の果てまで繋がっている。この大きな球体は、実は全て同じ面であり、神羅万象全てが繋がっているんだ。

久しぶりに時間ができると、ついそんな事を考えてしまう。名も無き山の懐で、山に抱かれるように暮らしていると、山河の圧倒的な生命感、大地の絶対的な存在感を強く感じるんだ。それらは神秘的な生態系の営みを否応なしに意識させる。

師の教え

いろいろな情報が飛び交い、何が正しいのかわからなくなる。

いろいろな人が無責任に口を挟み、どこへ行ったらいいのかわからなくなる。

誰もが、自信たっぷりなのに、いざとなれば無責任に逃げる。

そんな回りの流れに抗ってでも、僕は自分の考えている事をやり遂げたい。

誰かの評価を気にしながら動き回る事だけはしないと決めている。

僕が行きたい場所に辿り着くには時間がかかるし、稼ぎも必要になる。

はしゃがず、真っ当に、目立たず、少しずつ、しかし確実に。

我が師杉浦銀治は「捨石になれ」と言う。

銀治先生の師である岸本先生の言葉には、「功を譲れ」とある。

僕にはまだまだ先のようだ。そうなれるように意識はしているし、そんな男に憧れているけれど、今の僕は、目の当たりにする下品な人たちと真っ向からぶつかってしまう。人の手柄を横取りしておいて、自分だけを売り込んで、下品に高笑いする奴の姿に、腹を立てている。

もっと自分を磨き、大きな男になって、奴らに功を譲れるようになるのだろうか?

僕の望みは、名も無き水守人だ。どこにでもいる山守人だ。

山の先輩たちの知恵を学び、それを自分のモノとして腹に落とし、身体に刻み込み、仕事を手で考えられるようになれたら、それを誰かに伝える事。

自分が何かできる事が偉いのではない。他人より優れているからと、自慢したところで子孫には続いていかない。愚直に自分の仕事をやり遂げる事。徹底的な自己評価を繰り返し、ただひらすらに仕事をこなす山男たち。

そんな当たり前の山男になりたくて、今日も明日ももがき続ける。

こんな日

今日は雨の予報だったし、夏の疲れもあって、一日家にいた。誰とも会ってないし、誰とも話してない。

こんな日もあっていい。米も野菜もあるから、お金も使っていないけれど、電気やら水道やら、生きてゆくための経費はかかる。最低限の暮らしをするための金、固定資産税、車の車検など。黙っていても金はかかる。

それを稼ぐことは、最優先事項だ。稼ぎだから、多少不本意なことでも、黙ってやる。僕の場合、独り親方だし、組織に属していないから、不本意ながらやる稼ぎというのは、とても少ない。

内山節さんや、渋澤寿一さんの言われる「稼ぎと仕事」

内山さんは「自由と自在」という言葉にも置き換える。
「自由」はお金で買える。「稼ぎ」があれば、「自由」は手に入る。
「自在」は、自分自身の存在を自分で成し遂げる事。志を持った「仕事」の達成感で味わえる。

渋澤さんは「稼ぎと仕事、両方できて一人前」と言われる。

ホントに、そのとうり。僕が考える「稼ぎ」とは、文字どうり、日々生きてゆくための外貨を稼ぐこと。

「仕事」とは、お金にはならなくても、自分がやりたいと思うことを黙々とこなすこと。例えば、誰も見ていないときに、道の草を刈ったり、お宮さんの掃除をしたり。「仕事」のような「稼ぎ」もある。志を持って行動したことで、報酬がある場合もあるから。

だから、今日は自分の「仕事」に精を出した。家の掃除、書類整理、雨が降ってきたから読書。

金自分のことも満足にできないやつが、世直しとか人助けなんて言っても、薄っぺらいだけ。

雨だけど、宇宙(そら)に想いを馳せ

離れているけど、あの母なる森に魂を放ち

まだ見ぬ自分の未来の姿にエールを送る

たまには、独りで自分に向き合うのも必要だと思うんだ。

今はまだ

夢の途中。子供のころからあこがれていた生き方に、ちょっと近づいている。

山の恵みを必要なだけいただき、それを糧に地味に生きること。

活動家たちの浮かれた様子を横目に、僕は山に向かう。彼ら活動家の目的は「地域のため」とか、「世直し」とか言ってるけれど、結局は自分たちが有名になること。目標は自分たちの活動の成功であって、地域が元気になるとか、農家を救うとか言ってもそれは、彼らの実績作りの道具でしかない。ただのアイテムなんだ。事業をやって、実績が無いと困るから関係者を煽る。派手さとスピードと量を求めてくる。そもそも、彼らが勝手に始めたことなのに。地元住民は頼んでもいないことで急かされる。中には地元に根付くプロジェクトもある。そのポイントは、地元の人たちがやる気になり、主体となり、活動家がフェードアウトしていなくなっても、関係なく粛々と続くことだと、強く思う。彼ら活動家のミッションは、外から新鮮な考えを入れること。きっかけを与えて、動き始めたら静かに去るべきだ。実績が欲しいからいつまでもしがみつく。すごくかっこ悪い。自分たちがいないとプロジェクトが動かないと勘違いしている。本当に地域のためになっているプロジェクトなら、ゆっくりでもちゃんと動くものだと思う。

僕はこの地に永住しようと思っている。彼ら活動家とは覚悟が違う。彼らは外からやってきて、大騒ぎして田舎のおじさんやおばさんを巻き込む。数年で飽きて、また違う土地へ入り込む。そして、同じことを繰り返す。たいていの場合、補助金の出入りと共に動く。あまりの無礼さに地元から弾かれることもある。彼らが去ったあと、静けさと空しさが残る。結局、何の役にも立たないことが多い。

彼らとは距離を置いている僕はこの地で幸せに暮らしている。逆に、彼らと深く関わっていると、僕がここで暮らすのにマイナスになる。

僕の仕事相手は地球だし、僕にそれを教えてくれるのは地元の人たちや同じ思いを持った仲間たちだ。その中にはよそ者もいる(僕自身がよそ者だ)。でも、みんな地に足が着いている。

明日は集落組長としてのお役がある。僕はそれを誇りを持ってやろうと思う。

私の仕事

いくら浄化に贅を尽くしても、

 私たちは山が水を生むようには

 美しい水を生むことはできない

 とどのつまり、水を守るには山を守るしかない。

 そして、その山を守るには、

 山を守る人を守るしかない

 我が師匠、斎藤和彦の小屋に貼ってあった言葉より

僕の仕事(間伐)は、その結果を自分の目で見ることはありません。仕事の成果は、30年~40年後にしか現れないのです。

まだ見ぬ子孫に、当たり前の地球を残すことが僕たちの使命です。

一旦、人が植えた森林は、人が手を入れ続けるしかありません。それが間伐です。

間伐することで、林内に光を入れます。後は母なる地球に委ねます。地球環境を守りたいのなら、伐ったら見守るだけです。

人間が痛めつけた環境は、地球自身の自己再生能力で再生するしかないのです。

人間にはこの星を元に戻す能力などありません。治し方も知らないまま、壊し続けてしまったのですから。

たった百年の愚行は、この先何百年もかけて償っていかなければならない。

能力も資産も何も無い僕ができること。それは

「炭やきを通して、火の文化を守る」こと、

「山を手入れして水を守る」こと、

「間伐した木を挽き、「命の箱」を造り、きちんと使うこと」。

たったそれだけ。

僕が誇りを持って取り組む仕事です。

秋の気配

明日の契約打合せ(ちょっと大きな伐採仕事)に向けて資料を作っていて、久しぶりに日付が変わるまで起きている。

資料もでき、印刷を済ませてから外へ出てみた。

ひんやりとした空気。少しだけ、秋の気配だ。そう言えば今日の昼間、ツクツクボウシが鳴いていた。

僕が季節の巡りを感じるのは、やっぱり星空だ。

つい、先日のこの時間には夏の大三角が真上で、天の川が続く西の山には赤きアンタレス。北西にはまだアークトゥルスやスピカが輝いていた。春の大曲線だ。

今夜、この時間。北斗七星は沈み、カシオペアが昇ってきて、山の稜線にはペガサスの四辺形。秋の四辺形とも言われる。明け方にはオリオンも見えるだろう。

カシオペアとペガサスの四辺形の間には、アンドロメダ大星雲が肉眼で見える。すぐ下には土星。もうすぐ、木星も見えてくるはずだ。

宇宙(そら)は秋に変わっていた。

もう8月。稲もそろそろ穂を付ける時期。